広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」

自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い

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ブログ風 日々のつれづれ

過去をふりかえるそのときも、時間は前に進んでいく

10月29日は、次女の結婚式でした。
台風が心配されましたが、夕方の式の時間はちょうど雨上がりで、披露宴会場の全面ガラスに差し込む夕日がとてもきれいでした。

結婚式の後、「私が帰ってから開けてね」と娘から手渡された包みを開けたら、
娘の、27年間の家族の想い出がたくさんつまった写真と、娘からのメッセージがこもったフォトブックがありました。

結婚式の間の緊張感が解けたときに開けた、思いがけないプレゼントに、立ちつくし、ゆっくりと涙を流すことができました。

私も娘に手紙を返しました。
それまで話したことがなかった、色々な想い、辛かったことや寂しかったことも書いて送りました。
苦しかった時、辛かった時に娘の笑顔に救われたことを語りました。
本当に、ほんとうに、これから一生幸せでいてほしい、と心をこめました。

昨日、11月5日は、亡き長女が眠る広島教会の墓前で、「昇天者祈念礼拝」が行われました。
墓前で、天国にいる娘に、「幸せを見守っていてね」とお祈りをし、
次女の花嫁ブーケも一緒に捧げました。

結婚式の前から、ずっとこの日まで、頭の中でいままでの出来事やその時の想いを振り返り、
帰らない過去を取り戻したくなったり、あの日に帰りたい、そう思うこと続いていましたが、
ふと、時は止まらない、私たちは時の流れの中で新しい出来事を作り続けていく。
つらいことも、うれしいことも。
歴史が積み重なっていくことが生きていくこと。

そんなふうに感じました。

昨日は抜けるような青空でした。

2017年11月06日 18:19 |コメント|

「死にたい」の対極は「生きる、死ぬを意識せずに過ごせること」

10月18日、広島で行われた「『死にたい気持ちに本気で向き合う』シンポジウム」(主催ひろしまSotto事務局)に参加しました。

(シンポジウムの詳細内容は http://www.kyoto-jsc.jp/hiroshima-sympo.html にあります)

2時間余りのパネルディスカッションの中で、多くの、身に染みる言葉がありました。

断片的ですが。。
「希望とは絶望を分かち合うことである。同じ経験をした人同士で語り合うことが大切」

「安心して『死にたい』と吐き出せる場所や相手が大切。『死にたい気持ちをあなた(ここ)だから言える』という場所づくりが求められている。」

「すべきことがなく」全て助けられている状態の「生かされている自分」は死にたい気持ちにつながる。人は何かの役割や仕事が与えられる事も必要」

など、深く考えさせられるものでした。

また
「『死にたい』の対極は『生きたい』でない。『生きる、死ぬを考えずに過ごせる』こと。」という言葉には私自身がはっとさせられました。

私は、6年前の娘の自死や今年2月の母の突然死、2度の突然の死に遭遇し、
昨日まで元気だった人が突然いなくなってしまう「死」について、いつも考えています。

死は避けることができない、運命づけられたゴール。
生きるとは、そのゴールまでの道のりにすぎない。
私たちは「死」を恐れる。でもそれは、生きている間の「死ぬまでの苦しさや痛さ」を恐れているのであって、
死とは、何の苦しみも感じることができなくなること。

よく、死生観と言いますが、
いま生きている自分は、死に向かって歩いている道のりの途上にあるにすぎない、など。

自死遺族になる前の自分は、確かに「生とは、死とは」など意識せずに生きていた。
「まずは死ありき」と考えるいまの自分は、やはりフツウじゃないな、と苦笑しながら自分自身を振り返った言葉は重いものでした。

2017年10月22日 16:32 |コメント|

わがままな自分をなだめようとすると「気が重い」

気が重い。。。

「やらなくてはいけない」苦手なことに取り組むとき。

「今後のことを考えると正しいこと」を、「するべきだ」とは納得しているけど、
今一つ自分の気持ちがしっくりきていないとき。

「気が重くなる」自分をよく考えると、ただ「メンドクサイ」だけのような気がして、
「メンドクサイ」に負けてはいけない、「やるべき」正しい方向に向こうと、頭で奮い立たせるものの、

やっぱり気が重い、、、

それはきっと、心の底で
「今後がどうなろうと、間違っていようと、やりたくない!」と駄々をこねる自分がいるからだと思う。

傾聴の中で「やりたくないことを無理にしようとせず、自分の内面に正直になった方がいい」と
言っている自分が時々、このような自己矛盾に直面しているとき、ただただ「気が重い」。

正しい人には、こうした、グダグダした気持ちを語ることができないものです。

小さな一歩に傾聴に来る方が、医師や専門家の指導を受けていても気持ちがすっきりしない、と語るのは、
こういう気持ちなのかな、、と思ったりします。

2017年10月12日 19:12 |コメント|

自死遺族の心理を描く新聞小説「風は西から」

3か月くらい前から、家人が契約した中国新聞セレクトを読むようになりました。
連載小説の「風は西から」(村上由佳:作)に何気なく目を通し始めたのは2か月ほど前でしょうか。
恋人の男性が職場の長時間労働やパワハラによって追いつめられ、自死してしまう。
遺された彼女、彼の両親と共に会社と戦っていく(のであろう)のがこれからのストーリーです。

毎朝、この小説に、半分恐る恐る、半分急かされるように目を通します。
自死遺族の気持ちを軽々しく語るような文章があったら傷つく、、、
あまりに自分の身に迫る話だと一日気分が落ち込む、、、そんな不安もあり。

確かに、小説を読んで、フラッシュバックしてしまい、「仕事前に読まなかったらよかった」と思ったことは何度もありましたが、
自死に向かう程追い詰められていく彼の姿の描き方も
すぐ近くにいながら、ちょっとしたすれ違いで、目前で彼を救えなかった彼女の痛切な自責と後悔の想いも、
私の目には、克明に(ある意味容赦なく)、また、余計な虚飾がなく書かれているように思います。

私が一番心に残っているのは
彼のために、会社と戦う決意をした彼女(千秋)の
「失うものなんか何もなかった。いちばん大事なものは、すでに失ってしまったのだから。」という一節です。
また、その後、彼の両親と彼女が、彼の死の直前の行動について、色々な推測を重ねながら
「意味がないとわかっていても、時間の巻き戻しを繰り返す」(表現は違っているかもしれない)
この言葉も、自分自身に重ね合わせることが多いのです。

先日、中国新聞の取材を受けたときに、
「村山先生は、とてもていねいに取材をされたのではないですか?」と聞いたところ、
その通りであると、また、自死遺族からこのような感想があることを先生にも伝えます、と言われました。
 
数日前から、彼を死においやった会社の幹部との戦いが始まっています。
ここは、フィクションとして(現実にはそんなわけにいかないかもしれないが)ぜひ勝利の結末にしてほしい。

自死に至る前も、自死遺族になった後も、残酷な現実に心を打ち砕かれ続けている遺族のためにも。

2017年09月28日 20:48 |コメント|

9月20日 中国新聞で紹介いただきました

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今日の中国新聞(2017年9月20日)の紙面で、小さな一歩の活動が紹介されました。
いつも取材に来てくださり、5年間の歩み、新しい事業も含めた私の今の気持ちを
限りあるスペースでしっかりとまとめて記事にしてくださる滝尾記者に感謝(^_^)です。

2017年09月20日 19:39 |コメント|

一緒に昔を思い出せていたらどんな話をしていただろう

先週の水曜日、思い切って夏休みを1日もらい、
ひろしま美術館で8月27日まで開催していた「絵本のひきだし 林明子原画展」を見に行きました。

展覧会内容は ⇒ 「ひろしま美術館ホームページ」

「はじめてのおつかい」「あさえと ちいさいいもうと」「こんとあき」、、、
代表作はどれも、2人の娘が幼いころ、私も娘たちも大好きで、くりかえしくりかえし
読み聞かせ、娘たちも自分で読んでいた絵本です。

特に、
5歳のみいちゃんが、赤ちゃんのお世話でてんてこまいのおかあさんに頼まれて、牛乳をはじめて1人で階に行く「はじめてのおつかい」は、みいちゃんのどきどき、こわごわおつかいをする姿や、心配しながら、でもみいちゃんを信じておつかいに出すおかあさんの心情がわがことのように思い出されるおはなしでした。
本の内容は⇒ 「はじめてのおつかい」

また、お母さんに留守番を頼まれて小さな妹のお守りを頼まれたあさえが、ちょっと目を離した間に、やんちゃな妹のあやちゃんが外で姿が見えなくなり、あさえが必死に探す「あさえとちいさいいもうと」も、
当時の娘たちの姿がそのままだぶって見える、そんなおはなしでした。

本の内容は⇒ 「あさえとちいさいいもうと」

原画展を巡りながら、絵本を母娘で読んだことや、小さいながらも留守番やお手伝いをよくしてくれた娘の姿が走馬灯のように浮かび上がり、涙がにじみました。
おはなしに出てくる幼い姉妹の年齢差も娘2人とほぼ同じ。
仕事や家事で忙しい私をよく手伝い、気遣ってくれた“ちいさなおねえちゃん”の歩美。
みいちゃんもあさえも、おかっぱの髪、小づくりな目鼻立ちが歩美によく似ています。

原画展では、大人の母娘の姿も多く、きっと、同じように何十年か前を懐かしみ、
当時のことを語り合いながら見て回っているのだろうと思いました。

過去は過去。帰ってこない。
昔の懐かしい日々は、娘が元気で過ごしていたとしても、その時に戻れるものではない。

でも、昔話を語り合いながら歩美と見て回ったら、いまなら31歳になっている歩美とどんな想い出語りができたかな。

2017年08月29日 19:28 |コメント|

人は人の罪を赦せるのだろうか

最近、私の身近で犯罪が起きました。
私は間接的にその被害者です。
容疑者は私に対して「生きる糧になっている」「あなたがいるから死なずに生きている」とまで言っていた人でした。

傷つきました。
人の心が怖くなりました。
色々な考えが頭を巡りました。
「あの言葉は、私を油断させるための手段だったのか」と疑いました。

執着ともいえる愛着を示しながら、ほぼ同時に犯罪を重ねていく行為が恐ろしくなりました。

苦しみました。
警察の調書に回答しているうちに、自分が不確かな言葉で他人を陥れようとしているのでは、
という疑念が生まれてきて自分の記憶が信じられなくなったりしました。

まだ捜査が続いているので、どのような司法的な判断になるかもわかりません。
これからも色々なことを警察に聞かれることがあると思うと、訳もなく疲れます。

ちょうど同時期に教会で「罪の赦し」についてふれる聖書(ヨハネの福音書8章)の説きあかしがありました。
「人を赦す」とはどういうことか、深く考えさせられています。

まだ結論は出そうにありません。

ただ、願わくば、本人が罪を罪として素直に認め、
法の秩序にのっとった罰を受け、こころから償いを終えた後で、
「あなたに罪を定めない」と言える自分になれたらいいなと思っています。

とても難しいと思いますが。

2017年08月15日 18:46 |コメント|

時を経て悲しさも風のように過ぎ去るのか

先週土日は猛烈な暑さの中、名古屋⇒静岡と2泊で出かけました。

土曜日30日は名古屋で、4年前から事務局をしているクリスチャン自死遺族の分かち合い「ナインの会@愛知」に参加しました。
1年に1回の会なので、1年ぶりにお会いする方と、越し方1年間を振り返り、時間を経て変わらない想いと変わった想いを分かち合いました。

実は先週後半に、小さな一歩では色々なことが激変し、予期せぬ出来事もあったりしてへとへとだったので、
かなりくたびれた感じで名古屋に金曜日の夜遅く到着したのですが
やはり、教会で、同じ信仰の友である自死遺族同士が語り合う場というのは、
心が静謐になるというのでしょうか、張りつめているものがふっと抜ける、というのでしょうか。
いつのまにか疲れやいらいらが取れて、穏やかな気持ちになれるのが不思議です。

次の日、亡き両親の住まいの遺品の整理のために静岡に向かいました。
この日は静岡市内を流れる安倍川の花火大会です。
安倍川ぞいに建つマンションの上層階にあった父母の家は売りに出すことにしたので、
この部屋から見る花火大会も今年で最後と思うと、感慨がこみ上げました。

私は転勤族の家に育ったので、生まれた家もすでに他人の家に建て替えられてもう姿かたちもないし、
青春時代を過ごした家も、両親が静岡に転居するときに売却したので、帰るところではありません。
最後に両親の想い出の香りが残る静岡の家も、まもなく他人の手に渡ります。
「もう自分のルーツにつながる場所はどこにもなくなるんだな」と思うと寂しさでいっぱいになりました。
(現実の事情のため、売却しないわけにもいかないので。。。)

最後の花火をたくさん動画に撮りました。

翌日、母の遺品の中で持ち帰れるものとして、母が自分で縫った、懐かしいブラウスをかばんに入れました。
父が書き溜めた日記、両親がきれいに整理したアルバム、私の子どものときの作文、、、
古びた家具、、、

役に立つものは1つもありません。でも、一切合財を廃棄する決心まではつかなかったので
年末にもう一度整理する、ということで保留にしてもらいました。

いきなり目の前に積まれた遺品の山に圧倒されたけど、時間がたてば、気持ちも整理されて、捨てる覚悟もつくかな、と思いつつ。

暑い週末でした。

 

2017年07月31日 19:03 |コメント|

分かち合いは筋書のない、アドリブ勝負

今月は、9日に「こころを休憩する会」15日に「自死遺族の希望の会」16日に「福山つゆ草の会」同じ日に「精神科医のこころの相談会」が続けてありました。

それぞれ、色々な方が集まる企画なので、手違いによる失礼があってもいけないし、
特に分かち合いは、来られた方が様々な想いをいっぱいいっぱいに抱いてこらえるので、
1人1人が、異なる想いを語りながらも、1つでも共通した想いが分かち合えてこその「分かち合い」。

いつも薄氷を踏むような緊張感でこの2週間を過ごすのですが、無事に終わるとほっとします。

最近、つくづく思うのは、
同じように会を営んでいても、いつも細かいことでも反省点に気づき、修正していかなくては
いつのまにか主宰者のひとりよがりの会になってしまう、ということです。
ときどき、参加者から会の後にきびしい意見をもらうこともありますが、真摯に受け止めて、
ひとりよがりにならないよう、他の会のよいところを見習うために学びを続けようとも思います。

分かち合いではときどき、
予想もできない、信じられないような人生の悲劇を目の当たりにして、言葉が何も出ないこともあります。
そんなときにはご本人が「結局話すだけで、誰からもよい助言がもらえなかった」と思いながら帰宅されているのでは、と無力さを感じることもあります。

どのような想いがこの場で語られるか、予測ができない「筋書きのないドラマ」。
本当に本当に、色々なことが毎月あります。

今月はボーナスのような祭日が月曜日にあったので、
すっかり力を抜いて、1日家で過ごし、愛犬とたわむれました。
緊張がだいぶほぐれました。

また、明日、来月に向けてがんばります。(無理なく(笑))

2017年07月18日 19:22 |コメント|