広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」

自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い

ブログバナー

ブログ風 日々のつれづれ

偏見があっても確信をもって、できることをやる

先週土曜日(1月28日)に渡邊直樹先生を講師として開催した
「SOSに気づいて、支えてつなぐ」勉強会では定員20人を超える参加者があり、
「こころのともしび」は満員の方々で熱気のある勉強会になりました。

1部では渡邊先生が、全国各地の、「自死防止・予防活動」の事例をもとに講義をいただきました。
中でも印象的だったのは「自殺率が全国一低い 徳島県海部町」の事例でした。
海部町の住民の方は、地域に住む人の様々な価値観や考えの多様性を認めるおおらかさがあり、
ほどよい距離感をもった「ゆるやかな」つながりが保たれているとのことです。
これはお湯の温度で例えると41度くらい。ほどよく温かく「自由で安心できる」温度感。
お湯の温度が熱すぎる、つまり熱すぎるかかわりは逆にストレスになると。

この「ほどよく温かい」ゆるやかな関係が、地縁や血縁などの「熱い関係」とは違う、
地域の自由な「たまり場」であると。
その事例として、「こころのともしび」をあげてくださいました。

渡邊先生は、一昨年から「こころのともしび」でご協力くださっている「たまり場での『精神科医の無料相談』」の試みを、
全国に広げようとご尽力下さっています。

誠にありがたいことです。
私も、もっと色々な場所にこのような、民間のNPO法人などが主体となり、
その活動に専門職の方が賛同下さり、ご協力いただく形が増えてほしいと思っています。

また、今回の勉強会には、支える方だけでなく、当事者の方も参加下さっていました。
2部では自由な質疑応答や意見交換をしました。
その中で印象的だったのは、
「傾聴をしていて、自己否定や不安感が強い方のお話しを聞き、励ましても、なかなかその方自身の『考えの形』は簡単に変えられない。そんな中で、無力感を感じることもある」と聞いた私の質問に対して
ご自分の経験から、「どんな声掛けでも、心を込めて励ましてくれる方の声は、シンプルな言葉でも心に染みている。
その時の自分は、自分のことでいっぱいいっぱいで、耳に入っていないように見えるかもしれないが、
『声をかけてくれ続けている』こと自体で本当に励まされた」と語って下さった方の発言でした。

この勇気ある、ご本人からの発言には会場から拍手がわきました。
渡邊先生も「私もよい勉強をさせてもらった」と感謝していました。

改めて思いました。
なまじカウンセリングなどの勉強をかじってしまうと
「どういう声のかけ方が正しい(言葉をきちんと使わないと間違い)のか」
ということを考えたりして頭でっかちになってしまいがちだけど、
私たち、民間のボランティアに何より必要なのは
「言葉は稚拙でも、自分の声で、こころから声をかけ続けよう。」という気持ちなのだと。

小さな一歩の活動に対する専門職や世間の目には、未だ相容れない誤解や先入観、偏見があり、
「怪しい」「危ない」「宗教の勧誘だ」「カルトだ」とささやかれていることも知っています。
でも、やれることを一生懸命やっていこうと思いました。

2017年01月30日 19:23 |コメント|

 死はなぜいつも突然やってくるのだろう

0000439436.jpg

歩美が可愛がっていた猫のマーブルが17歳を目前に突然天国に行ってしまいました。

高齢になってだいぶ動きも緩慢になり、時々せきやくしゃみをしていたけど、
歯もだいぶなくなってしまっていたけど
1か月前の検査では特に異常もなく、大きな病気をしていたとは思えなかったのに、、、

2~3日前から食欲がなくなり、今朝、うずくまっていたところを抱き上げると失禁したので
あわてて獣医師に連れていきましたが、診察を待っている間の短い時間に息絶えてしまいました。

獣医師の診断では
毛艶も肉付きもいいので、多分これは血栓のような、急性のものだっただろうと言われました。

平均寿命を超えて元気で過ごせていたことやせめて最期を看取ってやれたこと、
長患いをしなかったことなど、自分が受容するために色々なことを考えて、頭では納得するのだけど。。。

「死とは、なんでいつもこんなに突然私におそいかかってくるのだろう。」
久しぶりに、大声で泣いてしまいました。


明後日、だびにふして、骨壺を歩美の横に置いてあげよう。

くしくも、今日は歩美の31回目の誕生日でした。

「天国に行ったら、また、可愛がって遊んであげてね」。


 

2017年01月23日 20:47 |コメント|

気がついたら一緒に泣いていた


以前傾聴に来たことのある人から電話がかかってきて
ひとりぼっちが辛くて辛くて死んでしまいたい、と訴える声は血を流すようだった。
 

かわいそうで、不憫で何を言ったらいいかわからないけど、とにかく必死で言葉をつないだ。

「私は心配しているから」「私が力になるから」「1人じゃないから」と訴えた。

「米山さんみたいなやさしいお母さんがほしかった」
「米山さんがお母さんだったらよかったのに」と
泣きじゃくりながらその人が電話口で言う。

ちがう、ちがうんだよ。

こんなに一生懸命はげましていたら、
こんなに必死な気持ちで話を聴いていたら娘は死ななかったかもしれない。

いいお母さんじゃなかったんだよ。やさしくなかったんだよ。
いま、やさしいお母さんみたいなまねをしていても、
本当に一番必要なときにやさしいお母さんになれなかったんだよ。

だから、いま、ここでこうやってあなたと話す運命になったんだよ。

生きていてほしいと、乗り越えてほしいと思いながら
気が付いたら泣いていた。

いまも電話口の声が耳から離れない。

2017年01月11日 17:34 |コメント|

神様はいつも私に「人生の宿題」というプレゼントをくださる

昨年も押し詰まった12月23日、小さな一歩の活動に突然、新たなミッションが与えられました。
それは、「緊急保護にいかに対応するか」というものでした。
このミッションは目先のことだけでなく、これから長期的に取り組むかもしれない新たな課題に係ることでもあります。

クリスマスの24日から「走りながら考え、行動し、結果を作る」日々が年末年始にかけて続き、
何とか最低限の対応はできました。

「神様はいつも私に素敵なプレゼントをくれる。それは、『人生の宿題』。」

年末年始は、迫ってきた社会福祉士国家試験の勉強が気になりながらも、目の前の緊急事案に取り組んでいるうちに過ぎました。

気が付いたら試験まで1か月を切っている、、、、、

私の人生はいつも宿題に追われている、と思いつつ、何とか緊急事案は一段落したのでこれから試験日までは資格試験の勉強をがんばります。

2017年01月04日 18:23 |コメント|

HNKeテレ「癒えない傷を抱きしめて~自死遺族支える“母ちゃん”弁護士」  

昨日(12月15日)いつも自死遺族支援のために色々お世話になっている佃祐世弁護士がNHKEテレ「ハートネットTV:癒えない傷を抱きしめて~自死遺族支える“母ちゃん”弁護士」で紹介されていました。
この番組は以前、広島局制作の地域番組でも放映されていたので、私が見たのは2度目です。
改めて観て、いつも接している彼女の人となりや誠実な弁護姿勢がそのまま出ていて、
とてもいい番組だと思いました。
彼女のやさしい微笑みや柔らかい口調。遺族のために様々な法的救済手段を練りだす戦略思考。
この両輪が佃弁護士の真髄だと思います。

番組の中の、彼女の言葉
「自死遺族の本当の願いはただ1つ、『もう一度会いたい』。それをかなえてあげることはできない。
でも、できることをすることで、せめて気持ちの整理につながれば、と思ってやっています。
それでどれだけ救われるかどうかはわからないんですけれど、、、、」
亡き旦那様のことについて
「本当にやさしい人で、いつも私のやりたいことを認めてくれていたので、今でも『思い通りにやったらいいよ』と言ってくれていると思う」と言われていました。

社会的貢献度は雲泥の差がありますが、この想いは私にもとてもよくわかります。

そして
(自死の直後の壮絶な苦しみも)「いまはそれさえも愛おしく思えるようになった」とも。

※どれもうろ覚えの言葉なので、正確でなかったらすいません。※


番組視聴の後、「亡き人を想うときの愛おしさ」から、どんどん違う方向に想いが広がってしまいました。

愛おしい、、、亡き人を思う時(自死に限らないと思いますが)「愛追しい」。私の造語です。
「強い愛が後追いする」。いつまでも。終わりはない。

私は娘の生前の元気だった姿を思い出すたび、同時に苦しさも悲しさも蘇ってまう。
楽しい想い出、明るい笑顔を思い出すたび、同時に自死直後の娘の顔が浮かんできて
「どうして、どうして、あんなに元気だったのに」という問いかけが止まらなくなる。

これも愛おしさのひとつでしょうか。

楽しかった出来事を思い出すときは、楽しかった気持ちも一緒に蘇ってきてほしい。
悲しみの色で上から塗りつぶされないで。

だって、私たちはこれからも生きて、新しい想い出を作っていけるけど、娘の思い出はもう増えない。
だから25年分の思い出を大事に、鮮明に、その時の気持ちのままとっておきたい。
家族とも、楽しかったその時の気持ちを封印せず、笑顔で想い出話ができるようになりたい。

まだそれができていないけど。

そんなことまで思い及んでしまいました。

2016年12月14日 11:38 |コメント|

がんばっているつもりでいても気づかないほころびがそれを台無しにする

時々、たまらなく、いたたまれない気持ちになる出来事がある。

分かちあいや、こころのともしびで傾聴をしている中で、
目配り気配りが行き届かず、
複数の人が集まって話をする場で、ある人の言葉や態度(本人には悪意はないのだが)が
知らないうちに他の人を傷つけてしまうことが起きたり、
複数の人に同時に対していると、1人の人への気持ちの傾け方が中途半端になることもある。
運営や進行に気持ちが傾いてしまって、本当はもっと話をしたい人の話を時間切れで聞けないこともある。

自分の目が背中にもあり、手が8本くらいあり、頭も口も4つぐらいついていたらいいのに、と思う。
というより、自分が365日休みなく4人くらい同時に動ければ起きないのかと思う。

それ以前に、注意深さや丁寧さが足りない自分の性格が情けなく悲しくなる。

不満を持った人もその場では言わない。
帰ってから、怒りや悲しさを伝えてくれる人は親切だ。
何も言わずに去っていく人の方が何倍も多いと思うと、いたたまれない。

分かちあいには、不満やトラブルを起こさないことを重視して
色々な制限や禁止事項をはじめから設定し、余計なことをしない、というところもあるけど、
小さな一歩では、自由で、低い垣根の場にしたいと思って、なるべくフリーな状態でやっている。

考えが甘いのかな。

やってもやっても、いや、やればやるほど、出来ていないことに打ちのめされる。

 

2016年12月12日 21:35 |コメント|

辛さや不安は本人の尺度でしか測れない

先週、目が痛いので眼科の診察を受けたのですが、
偶然、目の痛みとは別に、検査結果から緑内障の疑いが指摘され、
今週精密検査を受けた結果、中期の緑内障であることがわかりました。

緑内障とは、中心視力で見える視野の範囲が白濁して失われていき、視界が狭くなる病気です。
私の両目は、視野の上半分がすでに失われている、という結果でした。

緑内障の「視野が失われる」とは光を感じ取れなくなる=暗黒 というのではなく
例えると、今の自分の視野の上半分に白い遮光カーテンがさがっているような状態。
コンタクトレンズに例えると「レンズの上半分の白濁汚れのために、全体的に物の輪郭がぼやけて見えている」状態。

ああ、病状が悪化すると、視界全体に遮光カーテンがかかって真っ白になるのだろうか、、

全く自覚症状がないまま、ここまで進行していたことや
失われた視野の回復はできず、今後はこれ以上の進行を食い止めるための治療が必要だということ
(つまり、治療をしないと、失明までいってしまうこと)など、
予期していなかったことが突然やってきたため、心がとても動揺し、落ち込みました。

「緑内障の9割は自覚症状がないまま進行し、気が付いた時は手遅れの人が多い。
偶然、今の時点で見つかったことはラッキーだったよ。今から治療すれば失明する可能性は低いからね。」
とやさしい眼科医に励まされ、
「ともしび」の人々にも、知り合いの緑内障の人が、ふつうに日常生活を送っていることなどを教えてもらい、
随分力づけられました。

でも、それでも。
1人の時間には気がつくと、今後自分の目がどんなふうに悪くなっていくのか、失明しないのか、失明までいかないにしても、進行したら「あれもこれももうできなくなる」「ほとんど社会生活が不可能」と黒雲のように湧いてくる不安を抑えることができません。

ネガティブスパイラルに入っちゃだめ、前向きに治療に取り組めば大丈夫、と励ます自分の声もあるけど。
この程度の病気でめげてはだめ。もっと苦しい想いを抱えている人はたくさんいるんだから、と自分を戒める気持ちもあるけれど。
全部わかっている、わかっているけれど、すぐにはそのすべてをすんなりとは受け入れられない。

自分の身を振り返って、改めて、困難な気持ちになった人への声掛けの難しさを実感しました。

良かれと思ってかけられる励ましの言葉でかえって傷つくこともある。。。。
他人には「大したことじゃないよ、よくあることよ、気にしない方がいいよ」と思えることもその人にとって、辛いことは辛いし不安は不安。
辛さや不安には客観的な尺度はない。本人にしかわからない。。。。。

カウンセリングで何度も教わったことを自分自身で実感する日々です。


 

2016年12月04日 16:02 |コメント|

高橋まつりさんの過労自死について思うこと

0000424629.png

電通社員の高橋まつりさんの過労自死に関する一連の動きを各メディアで見聞きするたび、心が痛くなりましたが、先日、母親の幸美さんがシンポジウムでお話しになっている姿をテレビで見たときは、胸をしめつけられるような、苦しい想いがこみあげました。

まつりさんの遺書に書かれていた最後の言葉
「大好きで大切なお母さん、さようなら、ありがとう。自分を責めないでね。最高のお母さんなんだから。」
を目にしたときは、泣いてしまいました。

死を決意してもなお、遺されるお母さんへの思いやりの言葉を紡いだ、本当にやさしい心の持ち主であったまつりさん。

最後の言葉に対して、幸美さんが何を思い、何を決意したのか。

自死遺族はそれぞれに1人ずつ違うので、私が勝手に想像しているに過ぎませんが、
全ての事柄や自死の原因になった関係者への怒りと、娘の遺恨を晴らしたいという決意は並々ならないものがあったと思います。
記者会見の時の幸美さんの、決意に満ちた強いまなざしと、固く結ばれた口元がそれを物語っていました。

「命より大切な仕事はない。」本当にその通りです。

いまや非難の的になっている電通鬼十則「取り組んだら放すな、殺されても放すな」は
正しくは
「仕事が手に入って会社が儲かれば、お前が殺されようが死のうが会社は全然構わない」です。
そう言えば、誰がこの言葉に従うでしょうか。

我々の社会では「死んでも○○」という言葉が安易に使われています。

「死んでも放さない」「命に代えてがんばる」・・・死んだら何もつかめません、死んだらもう二度とがんばれません。

「死んだ方がまし」・・・死の後には、なにもいいことは起きません。

この、単純なことを、経営者も社会全体も、そして1人1人が刻んでほしいと思います。
やさしい人が心を患い、その患いのために生きる選択をする力が枯れてしまう前に。

2016年11月11日 18:36 |コメント|

小さな一歩は「宗教団体」ではありませんよ

小さな一歩の活動を始めてから、幾度となく「宗教活動ではありませんよね」「宗教の勧誘はありませんか」
と聞かれ続けてきましたが(苦笑)
ある方から「こころのともしびに知人を誘ったら『あそこは宗教団体だから行かない』とはっきり言われた」
と聞き(^^;)「またか、やれやれ」という気分になりました。
どうも、「宗教活動→カルト集団や詐欺集団。行くととんでもない道に引き込まれる」というスティグマは根強いようです。

改めて明言しますが、
「小さな一歩の活動も、『こころのともしび』も一切の宗教活動はしていませんのでご安心を」。

このような声があがるのも、小さな一歩が活動当初から、分かち合いを「日本基督教団 広島教会」に会場を借りているからでしょう。
(そういえば、「日本基督教団って何教の宗教ですか」と聞かれたこともありました(>_<)。
基督=キリストです。日本基督教団は国内最大のプロテスタント系クリスチャン教会の連合(?)です。
詳しくは→ http://uccj.org/history
米山自身が、娘の自死をきっかけに、この広島教会と出会い、牧師先生や教会員の厚意によって、「分かち合い」の会場を無償でお借りしたところから、このおつきあいが始まっています。

キリスト教には「人は死によって永遠の命が新たに天国で与えられる。
先に行った人は後から来る私たちを見守っていてくれて、天国の入り口でまた再会できる」
という基本的な死生観があります。
娘がいまも私の日々の活動を見守ってくれている、そしていつか必ずまた会える。
これが私の活動のエネルギーになっています。
だから、個人的には、キリスト教信者であります。
(ここで「ほら、やっぱり宗教とつながっている。怪しい」と思われる方はご自由に)

そしてそれはどの宗教でも、また、特定の宗教を持たなくても、
多くの人が共有している想いではないでしょうか。

話は飛びますが、
広島カープの優勝パレードと優勝報告会が昨日あり、その前後に中国新聞では「カープファンだった故人を偲び、優勝の喜びを報告する」人々の姿が特集されていました。

亡くなった人との心のつながりを大切に生きていきたい。それは人間として自然な愛情だと思います。
そして、その愛情につけこんで、巨額のお金を巻き上げたり生活を破壊する一部のエセ宗教団体の存在は本当に迷惑であります。

2016年11月06日 19:01 |コメント|

「どうして広島東洋カープはこんなにも人生そっくりなんだろう。」

 広島カープのリーグ優勝が決まってから1か月、多くの「カープ本」が書店に並び、優勝までの道のりを多くの方が語っていますが、その中で、私がじ~んとして、「そうだよね、そうなんだよね」と思った文章が
「Number」911号「広島優勝特別号」の西川美和さんの巻頭エッセイでした。
全文を紹介したいのですが、一部を少し引用します。

『どうして広島東洋カープは、こんなにも人生そっくりなんだろう。』

「(球団の)重苦しい歴史こそが、「愛される物語」としての旨味を増させ、地元以外にも伝播していくことになった。(中略)この地方球団の優勝までの道のりを全国が温かく見守ったのも、人を惹きつける強い物語性があったからだ。
しかし、「ついに物語が結ばれる」のは昨シーズンの話だった。(中略:黒田投手、新井選手の復帰、前田健太投手の最後の年)15年続いたBクラスを脱出し、二年連続CS進出からの三度目の正直。物語の駒は完璧にそろったのだ。
こんな奇跡がめぐり合わせた年。金環日食?ハレー彗星?とにかく今年を逃せば優勝はない、と熱に浮かれたように始まった2015年。しかし大きすぎる期待は大きく空を切ることになる。
 また、23年待たされる_ と天を仰いだのは10月7日の最終戦。(中略)優勝ばかりか三位も取り逃がし、音もなく幕は閉じた。見上げれば彗星の尾っぽはどこにもなくなって、空はまた真っ黒く塗り固められていた。

 どうしてカープはこんなにも人生そっくりなんだろう。ミスを繰り返す。チャンスは生かせない。
 不甲斐なくくすぶり続けても泣きつく場所もない。そんな自分を重ね合わせて泣いてしまいそう。
 けれど、全国で赤いユニフォームを着る人々もまた、がんばれがんばれカープ!と叫びつつ、
 自分自身を奮い立たせているではないか。
 なぜなら、凡そ人間は本当は「持って」などいないし、どんな立場であれ、
 自分の弱さに歯噛みしているからだ。


 そして人生はやはり、物語のようにはいかない。さよならマエケン。ありがとう黒田さん。私たち、次の夢を見るまでちゃんと生きていられるかしら、と塩辛い喉をごくんと鳴らした。

 しかし、彼らは物語を続けようとしていた。(中略:カープの今年の快進撃はファンの皆さん、ご存じのとおり)

 「物語」は在るものでも、出来るものでもない。必ず人がつむぐものだ。神様は降りてきたりしない。人間が手を引っ張って、連れてくるものだ。(中略)どんな優勝にも必ず語られるべき物語はあるはずだ。けれど25年ぶりに私たちが胸に焼けつけたのは、9回裏3アウトの瞬間ではなく、常に指揮官の両隣に建って声を出し、身体を張り、若手とベテラン、投手と野手の壁を取り払い続けた41歳と39歳のおじさんが抱き合って子どものように泣いている場面だった。
 神は、彼らが自分で連れてきたのだ。ありがとう。ぼくらのカープ。」
 
全文を読みたい方はぜひ 書籍で http://number.bunshun.jp/articles/-/826497

 全国12プロ野球球団に多くのファンはいますが、1つの球団と自分自身の人生と重ね合わせて物語をつむいでいくファンの数はカープが一番だ、と思ってしまう私です。
 そして、私もまた、そんな物語に自分を重ねる1人であります。

 昨年のくやし涙がなかったら(そしてそのくやし涙が自分自身と重なって胸に迫るから)、今年、これほどの喜びはあったでしょうか。

 神様からもこんな言葉があります。
 「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。 種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は
  束ねた穂を背負い喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」(旧約聖書詩編126編)

 

2016年10月28日 18:44 |コメント|