「死にたい」気持ちの人に何ができるのだろう
座間の事件以降、SNSで「死にたい」と訴える人の心理や、その方々への寄り添いについて、色々なメディアが取り上げています。
色々な立場の専門家の意見も掲載されています。
私も自死遺族であり、自死防止に取り組む活動をする立場から何件かの取材を受けました。
その中で、自死遺族個人として辛いのは、
「死にたい気持ちを語る人が『リアル』にいないからSNSで吐露する」というトーンです。
(そのことについて、賛否両論ありますが、、、)
「家族も仕事や家事や、他のことで忙しいからゆっくり話を聞く余裕がない」、、、そんなことではないと思います。
どんなに忙しくても、大切な家族のこころの叫びを軽視する人はいないはずです。
でも一方で、「家族には心配をかけたくないから言えない」「家族に話しても解決にならない」と思っている人が多いことも知っています。
私の娘も、うつになった時、「心配かけたくないから母親だけにはこのことを知られたくないと思っていた」と言っていました。
そして、一言も「死にたい」と打ち明けることなく、無言で既遂してしまいました。
私に限らず、自死遺族の分かち合いでは、
「自死した家族の気持ちを分かってあげなかった、聞いてあげなかった」
「こころの病で悩む本人に、もっとやさしく接してあげればよかったのに」と自分を責め続け、辛い想いをしている遺族がほとんどです。
私自身がその思いを6年間すぎても抱えているからよくわかります。
「なぜ話してくれなかったのか」「何を考えて死を選んだのか」、、答えを返してくれない人への問いかけが続くのです。
同居する家族など、日常生活を共にする人ができることはないのだろうか、と、ずっと考えていました。
そんな中、小さな一歩の「こころを休憩する会」に参加している人からメールをもらいました。
こころの病の中でも、同じ症状の方が少ない障害に苦しんでいる人同士がたまたま、ある時の会で出会い、“自分だけでない”という思いで安堵して語り合っていた光景がとても印象的だった、という内容でした。
このメールから改めて、原点に回帰した想いに気づきました。
「同じ苦しみを持つ人同士が、同じ辛さを安心して吐き出せる“場”の意味」です。
それはリアルでもネットでもいい、“同じ経験、同じ苦しさ”を分かち合って、ひとりぼっちではないと思えることではないか。
考えてみたら「自死遺族の希望の会」も「こころを休憩する会」も、その思いで続けているじゃないか。
家族や友人、職場の同僚など、日常生活を共にしている人ができることは何だろう、
黙っていても現れる本人の“後ろ姿”に現れる毎日の生活や健康の変化に気づき、対応することだろうか。
でも、悲しいけれど、同じ苦しみを経験することはできない。。。これが限界だろうか。
ならばせめて、当事者同士が安心して語り合える場を本人と共に探し、背中を押して送り出してあげて、見守ってあげることだろうか。
私自身は、このようなことが何もできないまま娘を亡くしてしまいました。
だから、答えはずっと出ないままです。娘と話せるなら、ぜひその答えを教えてほしい。
残酷な座間の事件が二度と起こらないことはもちろんですが、
これをきっかけに「死にたい」と思う人が、安心してその気持ちを吐き出し、「自分だけではない」と思える安全な場所が増えていくことを願わずにはおれません。