「死にたい」の対極は「生きる、死ぬを意識せずに過ごせること」
10月18日、広島で行われた「『死にたい気持ちに本気で向き合う』シンポジウム」(主催ひろしまSotto事務局)に参加しました。
(シンポジウムの詳細内容は http://www.kyoto-jsc.jp/hiroshima-sympo.html にあります)
2時間余りのパネルディスカッションの中で、多くの、身に染みる言葉がありました。
断片的ですが。。
「希望とは絶望を分かち合うことである。同じ経験をした人同士で語り合うことが大切」
「安心して『死にたい』と吐き出せる場所や相手が大切。『死にたい気持ちをあなた(ここ)だから言える』という場所づくりが求められている。」
「すべきことがなく」全て助けられている状態の「生かされている自分」は死にたい気持ちにつながる。人は何かの役割や仕事が与えられる事も必要」
など、深く考えさせられるものでした。
また
「『死にたい』の対極は『生きたい』でない。『生きる、死ぬを考えずに過ごせる』こと。」という言葉には私自身がはっとさせられました。
私は、6年前の娘の自死や今年2月の母の突然死、2度の突然の死に遭遇し、
昨日まで元気だった人が突然いなくなってしまう「死」について、いつも考えています。
死は避けることができない、運命づけられたゴール。
生きるとは、そのゴールまでの道のりにすぎない。
私たちは「死」を恐れる。でもそれは、生きている間の「死ぬまでの苦しさや痛さ」を恐れているのであって、
死とは、何の苦しみも感じることができなくなること。
よく、死生観と言いますが、
いま生きている自分は、死に向かって歩いている道のりの途上にあるにすぎない、など。
自死遺族になる前の自分は、確かに「生とは、死とは」など意識せずに生きていた。
「まずは死ありき」と考えるいまの自分は、やはりフツウじゃないな、と苦笑しながら自分自身を振り返った言葉は重いものでした。