広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」

自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い

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死んだ人の命の意味は生き残った人に託されている

先日(10月8日)、岡山「生と死を考える会」のお招きがあり、50分ほどの講演をし、その後、「身近な方を亡くした方」との分かち合いに参加させていただきました。
講演の題は「自死遺族として自死防止のためにできること」です。

50分話す、というのは講演の素人の私としては結構な重労働なので、一応台本を作ろうと思い、
過去の講演や新聞への投稿記事を参考にしようと、読み直してみましたところ、驚いたことがあります。

それは3年前のものですが、なんと、肩に力が入った、優等生のような話だったことか!

活動を始めたきっかけとして「ネガティブな思いを、前向きなエネルギーに変えようと活動を始めた」とか
「自分にいただいた好意を多くの人に伝えて」とか「悩む方の救いになれば」、、、使命感に満ち満ちた内容でした。
3年前の自分は「負けないぞ、負けないぞ」とこぶしを握り締めていたのだな、と自分に赤面しました。

今回の講演では、そんな使命感に満ちた思い込みではなく、単純に自分の内なる声を思い出してお話しをすることができました。

死後1年ほどたった時、ある文章を読んだことをきっかけに、
娘は私に何かを託して逝ったのだろうか、私は何を託されたのだろうか、
託されたものを探すところから、白紙になった自分をやり直してみようか。
そんな単純な、内なる自分のためのスタートだったのです。

「生きている人は僕たちに向かって「そうだ」とも「そうでない」とも言ってくれるが、死んだ人は何も言わない。
だからこそ、死んだ人は全てを生き残っている人に託している。
生きている人は死んだ人の全てを受け取るように死んだ人から期待されているのである。
それだから、死んだ人はしばしば生きている人の誰よりも、人を動かす。
生きている人に応えようとして動く人は少ないが、死んだ人に応えようとして動く人は多い。
なぜなら、生きている人の命は本人のものだが、死んだ人の命は生き残った人たちのものだからである。」
(岡 知史「知らされない愛について」より抜粋)

そして今もその途上であります。

よく、「小さな一歩は次々に色々なことを手掛けますね」と言われますが、それはまだ私が、娘の死後の人生を模索しているからだと、改めて思うのです。

この、内なる模索につきあって下さっている方々に感謝です。

 

 

2016年10月10日 11:25