自死遺族の心の回復にハッピーゴールを決めるのですか?
先日、あるサイトで「自死遺族専門カウンセラー」という肩書の人の書き込みをたまたま見ていたら、
自死遺族の「こころの回復」に向けたプロセス、というものが書かれていました。
「否定」→「怒り」→「受容」→「生き直し」と辿って行くように導き(ここはよく本でも書かれている)、
最後には
「自死という辛い経験はしたが、それ通して、(結果的に)自分が新たな人生を探し出した。
そこで、『結果的には、新たな人生を始めることができた』、つまり『よりよい人生に導かれた』と思えるようになるのがカウンセリングのゴールだと書かれていました。
ハッピーエンドを目指すなら確かに正しいのかもしれない、心理学的には100%の成果なのかもしれない。
でも、私の心は、理屈でないところで、その結論を拒否します。
私も、娘の自死をきっかけに、それまでの人生でやったこともない「新しいこと」を始めました。
出会うはずのなかった、多くの方の多くの人生に出会うことができた。
感謝されたこともある。
でも、なぜそれをやっているか、という根源には「死にたくても生きていなくてはいけないから」という想いが今もある。
死んでしまいたい、と思いながら過ごした時期にも「自死」がどれだけ遺された人を苦しめるか、いやというほど知っているから「自死」はできない、してはいけない。
でも、以前と同じ自分には、もう帰ることができない。それまでの人生の道は断裂してしまった。
身体が命を消すまで、いやでも生きていけないなら、その間何に時間を費やしていたらいいのだろう。
そんなことを考えるところから「小さな一歩」は生まれているのです。
「娘の自死がなかったら歩まなかった、新たな人生が充実している」なんて、絶対思えない。
もし、タイムマシンができて、娘がビルから飛び降りた前の日、
薬をたくさん飲んで、病院に運ばれた夜。いや、その日の朝でもいい、戻れるなら、迷わず戻る。
そうしたら、ここで「小さな一歩」ホームページのブログに書き込んでいる私は存在しないだろう。
活動を通じてお会いしてきた方との出会いや語らいも全ては「なかったこと」になるだろう。
でも、私は迷わずそちらを選ぶ。申し訳ないけど。
自死遺族の気持ちはそうではないだろうか?
足を引きづるように生きる人生をどのように歩むのか?
その気持ちを理解せず、「よき成果に導こうとする」カウンセリングなら私は受けたくない。