自分のことばかり思い出してしまう3月11日
毎年3月11日に思い出すこと。
大震災が起き、津波が押し寄せた時間帯に仕事中で事態の深刻さを知らず、千葉にいた次女からの電話で知り、
夕方のテレビの画面で声も出ないほどの衝撃を受けたこと。
帰宅した今は亡き長女が、職場でニュース画面の動画に映っている人が、目の前で津波にのまれていく様を見た、と
「かわいそうに、かわいそうに。」と、何度も何度もつぶやいていたこと。
その後、死者行方不明者の数が増えていき、助かった人のインタビューを見ながら
「いのちって大事だよね」と何度も何度も言っていたこと。
その娘が、3か月後に自ら命を絶った。
大震災の被害の状況、多くの家族を失った人のインタビュー。
家や仕事も失い、途方に暮れる人々。
娘亡き後も、胸の痛くなる姿が毎日のように報道されていたが、
私はテレビも新聞もほとんど見る気力がなかった。
福島原発の事故や事故処理のことも、ほとんど見ることがなかったので、詳しく知らない。
ただただ、
「痛ましい大震災で多くの家族を失い、家も仕事までも失った人が何万人もいる。
そんな中で、自分なんかが『苦しい』『辛い』なんて言う資格はないのではないか」
「生きたい人、生きていくはずの人が突然亡くなってしまうことを、あれほど痛ましく感じ取っていた娘が、
自分の命は、なぜ大切にできなかったのだろう」
大震災で亡くなった人や遺族に対して、
自分でもなぜだかわからない、「申し訳ない」ような気持ちで、そればかりを考えてその年を過ごしていた。
毎年、この時期に、報道で東日本大震災についての特集があると、
どうしても自分は「2011年」という年をそのようにしか思い出せない。
人間は身勝手なものだとつくづく思う。