自死遺族の分かち合いに参加する人は暇と金のある人、ということらしい
先日、某メディア担当者から、いきなり電話がありました。
「小さな一歩の活動をホームページで見てお電話しました。
今、取材テーマが、「家庭の貧困と子どもの自死の関係」で。
貧困家庭って、親が生活に大変で、子どもに目が届かないから、子どもが悩みを話せず、自死しやすい、っていうことが一部で実証されているのですが、小さな一歩さんにはそういう遺族の人はいますか?」
「うちの分かち合いには、子どもさんを亡くされた遺族はたくさん来られますが、みなさん、悲しみや、亡くした子どもへの愛をお話しになるので、そういう方は知らないですが、、、、」
「そうですよね、分かち合いって時間とお金に余裕がある人が来るから、貧困家庭の人は来ませんよね。
もしそういう人がいたら取材したいと思ったんですけど。
どなたか紹介してもらえないでしょうか?」
「・・・・紹介できる人はちょっと。。。」
「ああ、わかりました。。。すいません」
多少、前後に他のやりとりもありましたが、この短いやり取りの中に、自死や自死遺族に対するどれだけの偏見が、こともなげに語られていることでしょう。
「貧困家庭では親が子どもに気を配る余裕がないから子どもが孤独」
「親に愛されていないから子どもの自死念慮が高まる」
「分かち合いに来るのは、暇とお金が余っている人」
分かち合いに参加する方々が、サロンのように着飾って、暇つぶしをしに来ている、とでも思ったでしょうか。
遺族に録音機をつきつけて、何を聞くつもりだったでしょうか。
ホームページを見た、と聞きましたが、私が子どもを亡くした自死遺族の1人であることを、この担当者は少しでも考えたでしょうか。
私自身が傷つくかもしれない、と一瞬でも考えた上での発言でしょうか。
逆に、このメディアが子どもの自死について、どのようにまとめるか、見てみたいと思いました。
今日も、夏休み明けに子どもの自死が集中していることについての有識者の論評はいかにもわかっていない、というものでした。
いつまで、自死や自死遺族に対する偏見がなくならないのか、つくづく考えさせられました。