命の危機が迫る現場
ある晩、知り合いの人から相談の電話が入った。友人(Aさん)の家族(Bさん)の自死願望が高く、悩んでいるという。
精神疾患はなく、病院にもかかっていないと聞いて
「よくわからないけど、不安がおありのようだからとりあえずお話を聞いてみましょうか」
とAさんの元に行く。
話は予想をはるかに上回る緊急性の高いものだった。
2日前に遺書を残して失踪し、発見された場所では、睡眠薬を大量に飲んでふらふら状態。
救急車を呼んだが、何とか意識がある状態でBさんが拒否したため、「本人が拒否しているので搬送できない」と救急車は帰ってしまったそうだ。
相談を受けた夜は家にいるBさんに対する恐怖と混乱を抱えながらAさんは帰宅した。
その晩、Bさんの不安定な状態は続き、家財を破壊したり、大声を出したり、卒倒して転落するなど、
本人だけでなく家族に危害が及ぶ危険が高まり、おびえるAさん。
警察を呼んだら「まだ被害が発生していないから」家族内のもめごと、と民事不介入で帰ってしまったそうだ。
「精神科救急を呼んだらどうでしょう」とアドバイスした。
Aさんが電話すると「まあ、落ち着いたら本人を連れて診察に来てください」とだけ回答されたそうだ。
次の朝、Aさんから電話がかかった。
「錯乱して大声を出していて、怖いんです。またたくさん薬を飲んだみたい」
「救急車は呼びましたか?」
「来ましたが、本人と話して『しっかり答えているし、拒否しているので』と帰ってしまいました」
とりもなおさず、Aさん宅に行く。
家の外でAさんと話しているうちにBさんが家から出てきた。震えが来た。しかしその場で卒倒して倒れる。
「救急車をもう一度呼んで!」
「でもさっき帰ってしまったばかりだし」
「でももう一度お願いしてみましょう!この状態だと拒否もできないでしょう」
Aさんが119番通報。混乱しているAさんに代わって状況を説明する。
救急車が着いた頃、Bさんはやや意識を取り戻し、会話ができるようになる。また、乗車を拒否。
救急隊「眠たいだけなの?どれだけ薬を飲んだの?」
Bさん「。。。。」(絶対ありえないほどのわずかな量だけを言う)
救急隊「(気が抜けたように)立てますか?部屋まで支えていこうか?」とBさんを家に送って、そのまま帰ろうとする。恐怖が顔に広がるAさん。
「待ってください!この人は!」と3日間のいきさつ、家族に危害が及ぶ危険があることを必死で説明する。
ここで、救急隊の若い隊員の表情が変わった。
部屋の中を捜査し、そこに大量に残っていた睡眠薬を回収。
「自傷他害の危険が高く、家族からの要望が高い場合は、本人が拒否しても搬送できます。」
「今から、僕が精神病院に緊急受け入れ要請をかけます。」
とBさんを家の中に返そうとしていた他の隊員を押しとどめ、小声で指示。
Bさんを興奮させないように、拒否させないように、上手に説得し、誘導して救急車に乗せた。
Aさんも救急車に同乗したのを見届て、自分はそこを離れた。
この処理があるまで、消防も警察も病院も、冷血な対応に、BさんもAさんも見殺しになると思っていた。
しかし、この若い救急隊員の判断、Bさんを説得して搬送するまでの見事なわざは、「神」だと思った。
結局Bさんは精神病院に搬送され、長期入院の必要があると診断された。
その病院は、その前にAさんが門前払いをうけた、精神救急がある病院だった。
それにしてもAさんはなぜ、その日の朝、私が必死に食い下がったような訴えを、はじめに到着した消防隊員にしなかったのか?
それは、「家族」だからではないだろうか。
家族は、緊急の危機(自分自身の身の危険も含め)におびえ、動転し、必要なことさえ語ることもできなくなるのではないだろうか。
精神病院に隔離される結果を導いたことが、正しいかどうかは私にはわからない。
ただ、その時はAさん、Bさん、その家族。守るべき命は希死念慮者だけでなかった、ということだ。
希死念慮者に対峙することがきれいごとではすまされない、ということを体の震えと共に身に刻み込んだ。