訴えることができない者の悲しさは
3月9日に広島弁護士会主催のシンポジウムが開催されます。
テーマは「自死遺族の直面する問題と考える」。副題は「弁護士やこころの専門家にできること」。
(詳細は⇒「関係団体の開催情報」http://chiisanaippo.com/infomation.html
これに先立ち、今週の金曜日に1時間ほど、自死遺族の立場で弁護士会の勉強会で話をすることになりました。
何を話そうか、と悩みます。
法律の“専門家”やこころの“専門家”、精神科の“専門家”、行政の“専門家”。。。
“専門家”とは「専門の資格や職業的な立場を持つ人」で、専門的な助言や手助けをしてくれる人、と考えます。
私は娘の自死のあとで、専門家の支援をいただいたことがありません。
法的な手続きを求めたこともありません。
娘の死に関して、法的に誰かを訴えたり真実の究明につながることはありませんでした。
個人的には発狂するほどありましたが、それを突き詰めると犯罪を犯しそうでしたから。
精神科医にも行きませんでした。
娘が死の前2ヶ月間に、精神薬の副作用で体が消耗し、ふらふらになりながら
「でもこれは元気になるために必要だから」と薬を続け、
最後には、その薬の多剤服用で未遂を図り、その後、精神的に錯乱し、投身して死んだから。
恐ろしくて向精神薬など飲む気になりませんでした。
「うつ病チェック項目」は全てあてはまっていたけど、
「娘が自死して、うつにならない人なんかいるもんか。チェックもなにもあるもんか」思っていました。
行政の窓口に相談にも行きませんでした。
私の望みは1つだけ、絶対にかなわないものだけ。相談しても解決しないもの。
2011年は自死者が3万人を超えていて、国をあげて自死防止への取り組みが活発化していました。
その中で、失業や借金を苦にした死、過労自死など「自殺は社会的に追い込まれた末の死」というスローガン(?)が上がりました。
また、3月の東日本大震災の爪痕が大きく、テレビや新聞では多くの家族を亡くし、
家や財産も失った方の悲嘆の姿が毎日のように報道されました。
そんな世相の中で、
私は肩身が狭い思いをしていました。
「社会的に追い込まれた末」でない娘の自死は、なんだというのだろう。
東日本大震災の犠牲者の方々の姿を見ると、「娘しか失っていない」自分、
自殺未遂を図った娘を見殺しにした自分は
誰かに訴えたり、助けを求めたりする価値がないのではないか。
「訴える価値のない人間」だという思いの中で、できるのは祈ることだけでした。
でも、娘が多剤服用で救急病院に搬送された夜から次の日の朝に起こったことは
消しても消しても消えない。
結局、自分で贖罪の道を探し、いまもその道を歩いています。