苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む
昨日12月20日の分かち合いでは10人の遺族が集いました。
そのうちの2人が、まだ1周忌も迎えていない初参加の方でした。
「希望の会」では、
「望まない方へのアドバイスや質問はしない。
アドバイスが欲しい方からの問いかけがあったら、
あくまでも「自分の経験」から、思いやりの言葉をかける」
ことをルールとしていますが、
昨日の分かち合いでは、少し年月を重ねた遺族が自分がたどってきた道のりを語り、
亡くなってから日の浅い遺族が涙をこぼしながらそれにうなずく、という場面が何度かありました。
傷つき、苦しんだ経験から生み出される言葉の説得力は何にもまさる、と思いました。
次の日の21日は教会の「クリスマス礼拝」でした。
牧師の言葉を聴きながら2年前のことを思い出しました。
この会を「希望の会」と名付けた理由。
私が3年前の12月に教会で洗礼を受けたきっかけにつながります。
当時、闇をさまよっていた私。明日という日を考えられない毎日を繰り返していた私。
「希望」という言葉が世の中にあることを忘れていた私が出会った聖書の言葉。
「(私たちは)今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。
わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、
神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマの信徒への手紙5:3-4)
「いまは、一筋の光も見ることもできない自分が、悩んで考えて、考え抜いた末に新しい自分を見出し、
小さくても1つの希望が見いだされたら、その希望は、うそのないものになるのだろうか」。
この言葉に接した当時には、すんなりとこの言葉を受け入れられませんでしたが
1年後、小さな一歩の活動を始めようと決めたときには
自分がそうでありたいように、同じ気持ちを他の遺族とも分かち合いたいと思いました。
「自死遺族の希望の会」は丸2年となりました。
苦しみの中に落ちてこそ。本当の自分の生き様を見出すことができるようになる。
そのように伝えていきたいと思います。