広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」

自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い

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ブログ風 日々のつれづれ

生と死の世界をつなぐ橋

「こころの語り場」には、色々な人が来られる。

話を聞くと「子どもの時からこれだけ苦しい半生を歩んできて、生きること自体がどれだけしんどかっただろう」と思う人も少なくない。
そのことが原因で、精神障害との闘いの歴史、という半生の人も多い。

でも、闘いながら、どうしたら生きていきていけるだろう、と必死で考えている。
「こんな、人に迷惑をかけるばかりの自分は死んだ方がいいのでは」と言いながら
心の中で「迷惑をかけない自分になって生きていきたい」と思う気持ちも持っている。

先日、心の語り場に来た方が
「以前、薬局の薬を大量に飲んで自殺未遂を図ったが死ねなかった。
その時に、自分が青酸カリを持っていたら死んでいたと思う。
今はだいぶ心の整理がついたけど、それでも「こんな最低の自分は死んだ方がいいのかも、という気持ちが常にある」と言われた。

私は
「その時に青酸カリを持っていたら、あなたは私と出会っていない。
自分の生き様や辛さをここで語ることはない。
苦しさの中から自分の答えを見つけることもない。

あなたが青酸カリを入手できなかったのも、あなたの運命がそのように導かれたからだ。
最低の自分でも、どんな形でも『生きていけ』といま、導かれているからだ」
と答えた。

私たちクリスチャンにとっては、「運命」と言わず「神様」なのだけど。

色々な話を聞きながら、どうしても娘のことを考える。

本当の心の中はもちろんわからないけど、
少なくとも20年以上は、普通の娘の人生だったと思う。

精神を病んでからも、本当の心の内は結局わからないけど
見守っていた限りは普通の生活も会話もできていて、一見他人にはわからないくらいだった。

でも、死はあっけなくやってきた。
迷うことなく逝ってしまった。

何がそうさせたのだろう、と、どうしても考えてしまう。

ふと、
「生と死の世界の間には『橋』のようなものがあるのではないか」
「生きることに疲れた人は『生きるか死ぬかの淵』をさまよいながら、その橋を探し歩くのではないか」
「その橋を渡ってしまうことが自死なのではないか」
「辛くても辛くても、その橋に出会わない人や、どうしても渡れない人がいて、その人は『淵』から帰ってきて、生き続けていくのかもしれない」と
そんなことをぼんやりと考えた。

娘がその橋にたどりつくのがあまりにも早く、また、迷うこともなく渡ってしまったのでは、と思う。

今頃、対岸で「ちょっと渡るのを早まったかな」と思っているかもしれない。

でもね。一度渡ったらその橋は引き返せないんだよ。

2014年10月31日 17:39