「小さな風の会」のこと
けいじばん「想いの投げ入れ箱」に投稿くださった遺族の方が教えてくださった「ちいさな風の会」。自死に限らず、病気や事故で子を亡くした親が集う会です。
世話人は、現在は立教女学院短期大学の学長をされている若林一美先生。
平成元年から、子を亡くした親の会(分かち合い)を続けて来られています。
平成18年に講演された「遺族の悲嘆とグリーフケア」(当時は山梨英和大学教授)
の原稿を読みました。
原稿の全文(PDF)はコチラ
長文ですが、自死を経験された方にも、身近に遺族がいて、どのように接したらいいかわからない方にもぜひ読んでいただきたいと思います。
「親の死 あなたの過去を失うこと」
「配偶者の死 あなたの現在を失うこと」
「子どもの死 あなたの未来を失うこと」
「友人の死 あなたの人生の一部を失うこと」
(E.グロールマン)
この講演録の中で、こんな文章があります。
「時間の経過について『悲しみにも2種類あるような気がする』とおっしゃった方がいらっしゃいます。(病気で子どもをなくした親が)「2つの悲しみ」というのは、身体的な痛みに対する訴えに対して、答えてあげられなかったことに対する悲しみ。そしてもうひとつの悲しみとは、言葉ではないけど、何か訴えたいような目をして自分に向けた思いの部分で、お互いの間の中でうまく関わりきれなかった、悔いから生じている悲しみであり、前者はどちらかというと少しずつだけれども時間の経過の中で薄くなっていくのに対して、後者はむしろ時間が経ってゆくなかで、「なんであのときあんな風にできなかったのか」「こういう思いだったのか」というような公開の思いも含めて、深く悲しくなっていく。」
自死は病死とは異なることもあるけれど、
「うつ」という病気に自分がうまくかかわれなかった、という点では同じ。
何度も時計を巻き直して、どの日からやり直せば違っていたのか。
どの言葉を言わなければよかったのか
どの言葉や行動を上手に拾ってあげていたらよかったのか。
その思いは時がすぎても小さくなることはありません。
講演録にも書かれていましたが
「もう○年も経つんだね、早いもんだね」と言われることが辛い。
他人からしたら「早いもんでもう○年」と言われる日々が、自分にとって、どんなに砂地を這うような長い道のりだったか。
そして、その砂地を這うような時の流れが、いつまでも続く、荒涼とした思い。
論文を読んで、私自身の心の奥にあるウロが開いたような気持ちになりました。
若林先生の著書「死別の悲しみを超えて」
2014年03月17日 20:46