自殺防止的視点は、ときに自死遺族を苦しめる
今週火曜日の20時から、NHKEテレで「増加する20代若者の自殺」特集が放映されました。
周囲から見ると些細とも言えるきっかけで希死念慮が高まってしまう若者の姿が描かれ、
その背景として、成長期に家庭の愛に恵まれず、親に存在を否定されたことが原因で
自己否定感や、強い孤独感を潜在意識の中に強く巣食っている。
だから、グラス一杯になっている水が目薬一滴であふれるように「死にたい」「生きていたくない」につながりやすい。
そんな主旨だったと観ました。
「自殺防止」の観点では、『確かにあり得る』。分かち合いに来る人にも見られるとのことです。
でも、私は、娘を死なせてしまった親のこころで見てしまった。
娘の死因は借金でも失業でも病気でもない。
人から見たら「そんなことで死ぬなんて」と思うことかもしれなかった。
番組の主旨をそのまま解釈すると、その心の背景に、親の育て方が悪かったということが潜在的にあったのかもしれない。
「愛していたつもりだったのに。何が間違ったのだろう」そこから離れられなくなってしまいました。
傷つけることをして、それが心の傷を作ったのかもしれない。
何がいけなかったのだろう。
どこで、傷つけたんだろう。
聞けるものなら聞きたい。
生きていたらそこからやり直せるかもしれないけど、
死んだ娘は何も教えてくれない。
子どもを亡くした自死遺族として、これほど辛い責め苦はないのです。
このようなギャップがある限り、「自殺防止」と「自死遺族支援」は矛盾する。
自殺防止対策=死にたい原因の調査研究=防げなかった遺族の心の自責
とつながる限り。
「自殺」か「自死」か。言葉の論争がまさにそれを象徴しています。