分かち合いで学ぶことが多い
先週土曜日に行った「自死遺族の希望の会」はその後の軽食会を含め、13人の参加となりました。(うち2人はお子さん)
分かち合いの話の中で、親御さんを亡くされた方と子どもを亡くされた方では
ずいぶんその受け止め方や、その後の人生についての考え方が違うのだな、と改めて胸に突き刺さることがありました。
子どもを亡くした親、として私は
「人生でこれ以上はない絶望や苦しみを経験すると、もう怖いものはなくなってしまう」
と言いました。
この先、どんなことがあっても、あの出来事に比べて大きい苦しみは何もない。
また、もうそこそこの年月を自分なりに生きてきたから欲もないし、手に入れたいものもない。
怖いものも、欲もない自分は、次に子どもに会うことを楽しみに残りの日々を消化するだけ。
この言葉に、子どもさんを亡くした方の中で、うなずく方が多くありました。
一方で、親御さんを亡くされた方で、
人生の手本とすべき人が自ら死を選ぶと
何を生きるための教科書にしていいかわからなくなる、
一から「生き方」を自分で探すために、毎日が模索なのだ、と話された言葉が胸に突き刺さりました。
同じ立場の方が「自分もそうだ」と言われました。
子どもを亡くすと、それまでの人生が否定され、
親を亡くすと、これからの人生を見失う。
自死遺族の中でも、立場や関係によって、こんなにもその後の人生への向かい方が違うことに改めて、グリーフのむずかしさを感じました。
2014年02月17日 19:59