「生きていればいいことがある」のか
週末に悲しいことがありました。
間接的な友人が自死で亡くなったのです。
今日の昼、葬儀にうかがい、直接の友人と話をしました。
長い間、生きづらさを抱えながらなんとか頑張って生きてきた。
経済的なこと、身体のこと、過去のつらい出来事のこと。。。。
色々なことが複数にからみあって、生き尽きた。
先週土曜日にライフリンクの清水代表の講演会があり、
自死とは「生きることを促進する要因」より「生きることを阻害する要因」が大きく上回ってしまい、
「死にたい」ではなく「もう生き続けることをやめたい」という心理がはてしなく膨らんだ結果だと
お話しをされていました。
自死にいたるまでに4~5の阻害要因が重なっていることが多いそうです。
葬儀からの帰り道、
「仮に発作的にでも『生きる促進要因がゼロになるような思いをしている人に、
(そしてそれは、他人では気づけず、手を差し伸べられないような、深いところにあることで)
その人に、自死はよくない、がんばって生きなさいと、言いきれるだろうか。」と
ずっと考えていました。
「生きていればいいことがあるよ、死んだらなくなるよ」と人は言うけれど、
その「いいこと」は結局、本人が自力で手に入れなくてはいけないのです。
他人は、「いいこと」のきっかけを差し出したり、教えることはできるけど
それを自分で手を伸ばしてつかまないと、その人にとっての「いいこと」にはならない。
自分から「いいこと」に手を伸ばしてつかむ努力自体が辛く、苦しいことの連続だったら。。。
亡き人の顔は安らかでした。
「すっかり覚悟を決めて『もう生き続ける辛さを考えなくていいんだ』と思ったとき、
初めておだやかな気持ちになっただったのかもしれません」と
遺族の方がおっしゃっていました。
死なないこととは、生き続けていくこと。本当に長い道のりです。
葬儀場の帰り道に娘が勤めていた職場があります。
今まで近くまで行っても、どうしても立ち寄れなかった場所。
今日はふと、訪ねてみました。
定休日で人影はなく、ショールームはひっそりとしていました。
娘とショールームの展示車を見ながら車の購入を決めたときのこと。
車の手続きで何度か店に行ったとき、
他のお客さんに接客していたときの娘のいきいき、きびきびした顔。
購入手続きや保険について語っていたときの目の光。
色々な面影が、灯りのついていないショーウィンドウごしに浮かんだようでした。
「ここでがんばって生きていたんだよね。」
と声をかけて、店をあとにしました。