広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」

自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い

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死への恐怖がゼロになるとき

先週末の「こころを休憩する会」にお子さんのこころの病に悩む親ごさんが多く来られました。
死にたい、、自分には生きる価値がない、、死んだ方がましだ、、、生きていてもいいことはない、、、
このような子どものこころの叫びを受け止める辛さを聞いているうちに、8年前の娘と私のことが脳裏に蘇ってきました。
 
娘も腕に沢山の自傷の傷を作り、「死ぬ」と言って家を飛び出したり、自分を痛みつけたり、
そんな行為を繰り返していました。
 
心が浮かび上がったり、落ち込んだりを繰り返していた頃、
娘が生きていくために唯一すがっていた希望が断ち切られる出来事があった。
彼女にとっての“心の命綱”がぷつんと切られてしまった。
 
私が最後に娘と言葉を交わしたとき、その顔は笑顔でした。
横にいた私に“ちょっとした頼み事”をしました。
私は娘の落ち着いた話しぶり、すっきりした笑顔にすっかり安心しました。
“その頼み事”を果たすためにいそいそと娘のそばを離れました。
娘がビルから飛び降りたのはその、わずか10分ちょっとの時間でした。
 
完全に死ぬことを決めて、迷いが0%になった、その表情が私が最後に見た笑顔だったのでしょうか。
人間として一番重い「こころの病の症状」とは心の中が「死」に完全に支配されてしまい、恐怖を感じることができなくなることではないでしょうか。

分かち合いの場で私は言いました。
「死にたい」と訴えて続けてきた人が、状態が好転しないのに急にそれを口にしなくなった時が、一番警戒する時かもしれない。
なぜなら「死」を決心したら、止めてほしくないから、回りを安心させるためにむしろ元気を装うのです。
 
「死にたい」という言葉に対して「死んではいけない」「すべきでない」ではなく、
「死」とはどういうことか、必死に語って下さい。
死んだら楽になるかもしれない。でも「楽になった」と感じることはもうできない。
死んだらあなたを苦しめてきた人に少しの仕返しができるかもしれない。でも、仕返しができたことを確認することはもうできない。
死んだら沢山の人が泣くだろう。でも、その泣いた姿を見ることはできない。
死んで、自分の正義を証明できるかもしれない。でもその証明できたことを知ることはできない。
 
そして「あなたが死んだら私がどんなにか苦しく悲しいか」その気持ちを必死に語り続けてくださいと。
2019年08月14日 11:39