広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」

自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い

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自死遺族は涙を隠して静かに生きているのが“普通”なのか

時々、というか、結構頻繁に
「『自死遺族なのに』こういう活動をされて、えらいですね」とか
「なぜご自分も辛い思いをされているのに、こういう活動ができるのですか」
と言われることがあり、なんと答えたものか戸惑うことがあります。
 
でも、例えば、
事故や事件で家族を亡くした遺族が、再発防止のために社会活動をすることもある。
大きな自然災害で家族を失った当事者が、復旧に立ち上がると共に予防のために国や地方行政に呼びかけながら、被災者同士が助け合う運動に参加することも多い。
辛い経験をした当事者だからこそ、二度と同じ悲劇が起きないように、社会に問いかけたい想いも強い。
そのような活動をしている人に、「なんで被害者がするのですか?」という問いはあまり生まれていないと思うのです。
 
一方で自死遺族にはこの問いかけが生まれる、というのはやはり「自死」に対する特殊な見方があるのではないかと思うのです。
「自死は恥ずべきもの、隠すべきもの」という『世間の偏見があるのに』(実はそう思う人自身の偏見だと思う)『それを跳ね返して堂々と活動する人間への違和感』(「え、なんで気にしないの?」)でしょうか。
 
私が活動の最初から自分の顔も名前も、娘の名前も写真も公開していたことを「よく勇気がありましたね」と驚嘆されることも多いのですが、そのときは
「自死した人も遺族も、他人や社会に対して、何も悪いこと、恥ずべきことはしていない。そのことを自分自身が証明したい、という思いで全てを公表しました。」と答えています。
 
私は、娘の自死で自分の人生を全て見失った思いで過ごしていた日々の中、半年ほど経ったときに娘が生前私に遺していたものが偶然見つかりました。
そのものによって「娘は、私に『何かをしてほしい』と託している」と思いました。
(単なる思い込み、と他人に言われても構いません)
だから、何かをしたい。医療福祉の分野に全く素人の自分でも何かできることをまず「一歩」でも。とおもいました。
それが「小さな一歩」の源流です。
2019年11月17日 17:23