愛猫が教えてくれた「看取る」ということ
自宅で飼っていた猫のマリモが4月15日、永眠しました。21歳。人間では100歳を超える超高齢でした。
5年前に重い腎臓病で余命3か月と診断され、覚悟の上で、日々の投薬、点滴、腎臓病の高齢猫用の特別食、手からの給餌、定期検診、注射など、ありとあらゆる手を尽くしてきました。
獣医師からも『奇跡の回復』と驚かれていました。
3日前から、腎臓病の末期症状が出て、いよいよの覚悟で15日は会社を休み、朝から見守っていましたが、昼前に、私の腕の中で徐々に拍動が弱くなり、そのまま眠るように心臓が動かなくなりました。
本当におだやかな最期だったと思います。
共に闘病しながら、「これほどやるべきことをやり尽くしたら、その日が来ても後悔することはない」と思っていました。
というより、この数年間、娘や両親との永遠の別れの後で、「してあげられなかった」後悔をずっと抱いてきた私も、夫も、「命はいつかは終わるもの、だけど、後悔のない看取りをしてやりたい」という思いが強かった。だから、迷いなくやりつくせたのだと思うのです。
弔いが終わって3日間。
悔いはないけど、たまらなく寂しい。マリモがいた時空間がすぽっと穴が空いてしまったように、心に力が入らない。
ああ、そうなんだな。そうだったんだ。
今まで、遺された者は、「もっとしてあげたかった」「こうしていたら助けられた」と後悔で苦しむのだと思っていたけど
愛する者を看取るということ、それは本当に、それ自体で理屈も容赦もなく、純粋に悲しいんだな。
初めて知った想いです。