広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」

自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い

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ブログ風 日々のつれづれ

一粒の麦は死んで大きな実を結ぶ

聖書の有名な言葉に
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
という言葉があります。

聖書上の意味はイエス・キリストが、十字架にかかる前夜、自らの十字架の死の意味を弟子に諭した言葉です。
私はこの聖句から「1人の人間が、生きている時より、死によって多くの人の中に大きな意味を残す」というようにも考えます。

また、私の好きなエッセイ集「知らされない愛について」(岡知史 著)の中にはこんな言葉があります。
(何度もブログに載せていますが)
「失われた命の意味について」
 死んだ人はしばしば生きている人の誰よりも、人を動かす。
生きている人に応えようとして動く人は少ないが、死んだ人に応えようとして動く人は多い。
なぜなら生きている人の命は生きている人本人のものだが、
死んだ人の命は生き残った人たちのものだからである。」

6月21日。
娘が昇天して丸7年。
この日に「小さな一歩」を設立して丸5年。

娘が生きていたら、私は何をしていただろう。
平凡に、平日は仕事をして、週末は映画やスポーツジムに行っていただろう、
何も疑問に思わず。

カウンセリングにも社会福祉士にも無縁の生活だっただろう。

自死遺族にも、死にたい気持ちを抱える人にも、心の病に苦しむ人にも、お金も家もなくさまよう人にも、家族のDVにさらされて命の危険を感じる人にも、虐待された人にも、自分の性癖が治せず苦しむ人にも、

誰一人会うことはなかっただろう。


娘の死は、地上に落ちた麦の一粒のように、新しい麦の穂を育んでいるのだろうか。

娘に「ありがとう」とは、言えないけどね、まだ。いや永遠に。

★ちゃんへの手紙

★ちゃん
たくさんつらいことがあったね。
あなたは何も悪いことをしていないのに。
あなたが、なんでこんな不公平に苦しみを味あわなくてはいけないんだろうね。
本当に怒りがこみあげてくる。

でも、そんな日々の中でも、あなたはがんばって明るく笑って話してくれたね。
「私は負けたくない。」と頑張っているね。(それがちょっと心配だけど)

この前、
「私、福祉の仕事を目指す。そして米山さんの手伝いをする!」と言ってくれたとき、
本当は涙が出るほどうれしかったのに、照れ屋でひねくれ者の私はうまくお礼を言えなかったこと、今も後悔しているよ。

★ちゃん。
聖書にはこんな言葉があるよ。
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。」

ただ「我慢をすればそのうちいいこともある」いう意味ではなく、
「苦難の中にあってこそ自らを強く深く見つめる人には、神様が苦難を乗り越えさせて下さり、
希望を与えてくれる。
そのようにして得られた希望は自分を決して裏切らない」
という意味と私は信じている。

私が一番つらかったとき、この言葉を何度もつぶやいたよ。
そのときは「本当に『希望』なんて手にできるのかな」なんて、半分は疑っていたけどね。

★ちゃん。
あなたが、この苦難の中から、いつか希望の道を見出した時、
私に会いに来てくれて、一緒に道を歩んでくれたら本当にうれしいよ。
でも、あなたが、本当にあなたらしく、希望の道を歩むとき、それが全然別の道でも、いいんだよ。
私たちのことをすっかり忘れてもいいんだよ。
あの時、あの場所なんか、思い出したくない、そう思ってもいいんだよ。

★ちゃんならきっとできると信じている。

あなたのために、私は祈ろう。

孤独な暗闇の中に、ほんのひと時でも差す日差し

小さな一歩には、いろいろな場所から、いろいろな経緯がある方が集まってくる。

つらい経験を沢山した方、今も苦しみの出口がわからない方がいる。

孤独の人生を歩んできた方がいる。
理不尽な暴力や暴力的な行動で一方的に踏みにじられてきた方がいる。
自分のこころや行動を、自分自身でコントロールできないことに苦しむ方がいる。
ずっと不遇の道を歩んできた方がいる。

自分自身の人生が、その人のせいでなく、ままならない方がたくさん訪れる。

そんな人々を見ていると、せつなくてやるせない。
権限も力も資格もない自分たちには、限られたことしかできない。
無力さに悲しくなる。

でも、時々薄日が差すような、ほっとするような、じんとするような想いがある。

ずっと孤独の人生を歩んできた方が、色々な事情を抱える他の人たちとほぼ初対面の食卓を囲むことになった。
おとなしくて、無口な方。
子どもも含めた、どちらかというと騒がしい食卓は大丈夫か、かえって疲れたのではと気になった。
でも、その方は次の日、
「大きな家族みたいに食卓を囲んで、お話をしながらにぎやかに、手作りのご飯を食べて。
こんなことは初めてでした。ご飯もおいしかった。
とても幸せな時間でした。」と明るい笑顔を見せてくれた。

前の日、その方の人生の話を聞いたときに、
「今までの人生で一体、どれほど“喜び”を感じることができていただろう」
と、その方が気の毒で胸が苦しくなった私は、
翌日この方の口から「幸せ」という言葉を聞いて、なんだか泣きそうになった。

そうだよね。よかったよね、そうだよね。
楽しくご飯を食べる幸せを感じることができたんだね。
ささやかなこと。人生の中の短い時間かもしれない。
でもそれを、この場所で味わってもらえてよかったよ。本当にそう思う。
 

我が足弱く、心折れることあれど

広島市からの委託で一時生活支援事業(女性専用シェルター)を始めて1年が過ぎました。
女性専用シェルターの事業はさらに、4年間継続されることになりました。

「NPO法人小さな一歩」を立ち上げ、月1回の分かち合いを始めて丸5年1か月。
「こころのともしび」を開設して2年9か月。
「女性専用シェルター」が丸1年。

活動の幅が広がるにつけて、多くの、そしてひとりひとり異なる壮絶な苦しみの人生に直面しました。

「なぜ、この人がこんなひどい仕打ちを受けなくてはいけないんだろう」
「もつれにもつれた心の糸はどこから解いていったらいいんだろう」
「この人が入り込んだしまった暗い闇に一筋の光が差すことはできるのだろうか」
「どうして、この人は、こんなことをしてしまうんだろう、止めることができないんだろう」

そんな思いで、色々な人と向き合いながらも、他人ができることの限界、というか
その人の代わりにできることは何もなく、苦しみも肩代わりできず、助言は意味をなさない。
自分の無力さに打ちひしがれることの連続だったように思います。

でも、人は、自分で光ある道を見つける力を自分の中に持っていて、一時的にはその力は弱まるけれど、
必ず、他人の力を借りず自分で立ち上がり、歩けるようになる。
それを信じて見守ることしかできません。

私はよく、「いつも忙しいですね」と言われます。
「何かアドバイスが必要な人は米山さん、解決うんぬんでなく、ゆっくりお話しを聞いてもらうだけがいい人は別のカウンセリングスタッフに」と、スタッフが傾聴を“お勧め分け”すると小耳にはさんだときは、心底情けなくなりました。

ああ、また私は、同じことを繰り返そうとしている。

いつも忙しい母親で娘の気持ちにゆっくりと寄り添えなかったから大事な娘を喪った。
そのことに対する強烈な贖罪の気持ちから、分かち合いや傾聴スペースを始めたのに、
結局、自分で自分を忙しくして余裕がなく、周りからも多忙な人間に見られる自分。
あれだけ自分を否定しつくし、新しい自分を始めたかったのに「くせ」を治すことができない自分。。。。

そんな私は、足を引きずりながら、汗をかきながら、疲れながら、無力感に叩きのめされながら、
怒りを抑えながら、日々葛藤しながら、不安に潰されそうになりながら、
新たな春を始めます。

目に見えないものは忌みするものですか

「自死遺族の希望の会」へ、自死遺族の方から「参加したいのですが教会が会場ですよね。宗教活動はないですか?」とのお問合せが頻繁にあります。
ホームページにもチラシにも「宗教活動は一切いたしません」と明記していても、不安?

先日も遺族の方から、宗教を語る団体から除霊だとか、魂の救済だとか、そんな名目ですり寄られ、詐欺まがい商法に引っ掛かりそうになった、との話を聞きました。
そうした、心が弱くなっている人を悪用する霊感商法があるから、自死遺族の分かち合いにも参加を躊躇ったり、家族に反対されるという話を聞くと本当に悲しさと怒りを覚えます。

一方で、日々の会話の中で、多くの困難や障害を抱えて苦しんでいる人を、陰で
「あの人の回りに、すごいマイナスオーラが漂っていて、“もらわない”ように近づかないようにしたよ。
知人に聞いたら除霊の塩をまいたらいい。と言われてすぐにやった」などというもっともらしい話を聞くと、情けなく思います。

たましい。目に見えないもの。
この世に生存している生き物以外に、何かが存在していることは私は否定しません。
むしろ、亡娘や父母の霊的存在を認めるからこそ生きて、活動している自分がいる。

霊の存在を忌みする偏見が、自死遺族を苦しめていることに気づいてほしいと思います。

困っている人は「何を助けてくれるか」ではなく「誰が助けてくれるか」を求めている

一昨日(1月20日)、広島弁護士会館で開催された「伴走型支援とは・・・今後の刑余者支援について」(主催:公益社団法人 広島県社会福祉会 広島県地域生活定着支援センター)の講演会では、北九州市の「認定NPO法人抱樸」代表 奥田知史氏の素晴らしい講演を聴くことができました。

「認定NPO法人抱樸」の活動はとても紹介しきれないのでHP(http://www.houboku.net/

専門職を中心とするチームによる弱者支援の限界をストレートにつき、
市井のボランティアや地域の人々による「伴走型支援」について熱く語られました。

心に残る、というより心に刺さる言葉がたくさんありました。

「抱樸とは、困窮している人を『荒木・原木』のまま抱き止めることだ。
“申請主義”の日本では、とかく困っている人を「なんだもっと早く相談しなかったのか」と自己責任化する。
困っている人は自分から相談できない。勇気がいるし、公的窓口が細分化されすぎて、どこに相談していいかわからない。本人が自分の危機に気づいていないことも多い。
「あなたは何がしたいの?」と聞いても自分のしたいこと、できることがわからない人が多い。
そんな人たちを「原木のまま」抱きしめることだ。原木だから抱く者は時には傷つく。絆は傷を含む。」

「専門家主導の支援を『太い数本のロープ』だとしたら、伴走型支援とは『多くの細い紐』で支えることだ。
“質より量”が大切。なぜなら、たくさんあれば、何本かの紐が切れても、他の紐でつながることができる。その関係性の多さが大切だ。これを『LKPS』(Light key persons)と呼ぶ」

「生活困窮者は2つの困難を抱えている。1つの“経済的困難”は生活保護で助けることができる。しかし、もう一つの“社会的孤立”(人とのつながりがない)は生活保護では解決されない。

「困っている人には『この人には何が必要か』だけでなく『誰が必要か』を考える。
危機が生まれた時、『助けて』といえる誰かがいること。資格とか、専門職とかは関係なく、一緒に動いてくれる人がいること。『この人が助かるなら、何でもいい、と考えられる人がいることが大切だ。すぐに問題が解決できなくても、“困ったときに相談できる関係性”をつなぐことが大切だ。」

「支援する側とされる側が一方通行になるのではなく、『相互多重型支援』が求められる。
支援された人が“されっぱなし”でなく、別の人の支援に参加する。『助けながら助ける』お互いが気持ちのいい想いをする。そこに“居場所”と“出番”がある」

断片的ではありますが。。

圧倒されながら必死に聴きました。
そして、小さな一歩が目指している方向は間違っていない、という想いと、
方向は間違っていなくても、できていないことがたくさんありすぎることに打ちのめされる想いが数倍ありました。

とげのある原木を、自分が傷つくことを覚悟で抱きしめられるか? いや、できていない。
最初から、限界を見定めて、「これ以上は民間NPOでは無理」と線引きしていないか。
民間団体の役割を、専門職や専門機関につなぐための入口、と言い訳して逃げていないか。

全く足りていない、できていない、やろうとしていないことばかり、、、と少し自らに甘くなりかけた自分が恥ずかしくなった帰路でした。

娘との約束を守ってくれている友達

年末、数年ぶりに少人数の女友だちと一緒に忘年会をしました。

たくさんおしゃべりをして、カラオケでは、70年代アイドルの歌を歌いまくりました(^_^)

こんなに楽しく友人と過ごしたのはほんとうに何年振りです。

もともと私は「○○友」というような、女性同士のお茶会や飲み会には縁遠い性格ですが、
特に娘を亡くして6年間、いろいろなお誘いがあっても行く気になれず、お断りばかり。
それでも飽くことなく、何かと機会があると声をかけ続けてくれたのは、
30年来の友人です。

広島に来て、始めは仕事の関係で知り合い、どちらかというと細く長い関係が続いていました。
でも、つきあいが長く途切れることはなかったので、私の30年間にあった、色々なこと
(彼女から言わせると、波瀾万丈な人生(笑))をすべて、一番よく知っている人です。

先日、飲みながら
「前に、あゆみちゃんに言われたのよ。
『ママには友達が少ないのを心配していたら、こんな友人がいるなんて。ほっとしました。
これからも誘ってやってください』って」

初めて聞く言葉ではなかったけど、
友人は、つきあいの悪い、無精者、返事もろくに返さない私にも、
歩美との約束を守るために、あきらめることなく声をかけて続けてくれたのかな、と
改めて気づきました。

色々な人が支えてきてくれたんだな。としみじみと心が温かくなった年末でした。

「傾聴講座」で一番学びなおしたのは自分自身だった

 先週土曜日(12月9日)、岩国市で新しく立ちあがった自助グループの会「ピア傾聴ほのぼの」のお招きを受けて、「こころの聴き方講座~想いを受け止め 想いに寄り添う~」で講師を努めさせていただきました。
1時間30分の長丁場で、しかも、題名のような「傾聴講座の講師」。
 何とも力に余るお役目なので、いつもは“出たとこ勝負”の私も、さすがにレジュメやスライドの準備を(数日前にあわててですが(笑))しっかりとしていかなくては、と、カウンセリングスクールや社会福祉士の勉強で使ったテキストをめくりなおし、「傾聴カウンセリング」の基本ルールやケースワークの基本原則(世に言う「バイスティックの7原則」)をおさらいしました。

おさらいしてよかった、、、

 改めて原点に返ってみて、「いかに、ふだん自分がルールや原則を無視して傾聴しているか」を思い知らされました。
 同時に、専門機関の窓口で専門職が行う「傾聴カウンセリング」と、当事者に近い立場の“ピア傾聴”(ピアとは、「仲間」という意味です)の違いも改めて気づきました。

 講座では、その思いのまま、「基本ルールはこうですが、実際やってみると、ルールどおりにはいかない」という話をしました。

 だって、聴く側も不完全なものをいっぱい抱えている“人間”ですから、神様のようにはできません。
 また、ルールに忠実すぎる傾聴は“正しい”かもしれないが、聴く人の暖かみや思いやりが伝わらないように思うこともある、と思います。

「『お話しをしている人の話をしているうちに“この人に、こういう助言をしてあげたい”“話の切れ間にこういう言葉を言いたい”ということが頭に浮かんだら、その時点で傾聴は終わっている』
この1つだけ覚えて帰っていただきたい」
「傾聴を学びたい、と思う方はまず、ご自分自身が傾聴カウンセリングを受けて下さい。自分が人の前で自分自身の話をしたら、何を言うかを体験すると、“自分は心の中にこんなことを抱えていたのか”と、その発見にをまず驚きます。
その発見が、自分にとってのセルフカウンセリングになります。」
「その人の想いは、究極その人にしかわからない。傾聴で大事なことは、話す人が“自分にしかわからない想い”をいかに自分以外の人に“わかってもらえるように”語ることです。その言葉が後から自分に返ってくるのです」

こんなことを話しました。

話を整理するために、色々な言葉の整理をした、私自身が、今回の講座で最も勉強し直しをさせてもらった気がします。

「死にたい」気持ちの人に何ができるのだろう

座間の事件以降、SNSで「死にたい」と訴える人の心理や、その方々への寄り添いについて、色々なメディアが取り上げています。
色々な立場の専門家の意見も掲載されています。
私も自死遺族であり、自死防止に取り組む活動をする立場から何件かの取材を受けました。

その中で、自死遺族個人として辛いのは、
「死にたい気持ちを語る人が『リアル』にいないからSNSで吐露する」というトーンです。
(そのことについて、賛否両論ありますが、、、)

「家族も仕事や家事や、他のことで忙しいからゆっくり話を聞く余裕がない」、、、そんなことではないと思います。
どんなに忙しくても、大切な家族のこころの叫びを軽視する人はいないはずです。
でも一方で、「家族には心配をかけたくないから言えない」「家族に話しても解決にならない」と思っている人が多いことも知っています。
私の娘も、うつになった時、「心配かけたくないから母親だけにはこのことを知られたくないと思っていた」と言っていました。
そして、一言も「死にたい」と打ち明けることなく、無言で既遂してしまいました。

私に限らず、自死遺族の分かち合いでは、
「自死した家族の気持ちを分かってあげなかった、聞いてあげなかった」
「こころの病で悩む本人に、もっとやさしく接してあげればよかったのに」と自分を責め続け、辛い想いをしている遺族がほとんどです。
私自身がその思いを6年間すぎても抱えているからよくわかります。
「なぜ話してくれなかったのか」「何を考えて死を選んだのか」、、答えを返してくれない人への問いかけが続くのです。

同居する家族など、日常生活を共にする人ができることはないのだろうか、と、ずっと考えていました。

そんな中、小さな一歩の「こころを休憩する会」に参加している人からメールをもらいました。
こころの病の中でも、同じ症状の方が少ない障害に苦しんでいる人同士がたまたま、ある時の会で出会い、“自分だけでない”という思いで安堵して語り合っていた光景がとても印象的だった、という内容でした。

このメールから改めて、原点に回帰した想いに気づきました。

「同じ苦しみを持つ人同士が、同じ辛さを安心して吐き出せる“場”の意味」です。
それはリアルでもネットでもいい、“同じ経験、同じ苦しさ”を分かち合って、ひとりぼっちではないと思えることではないか。
考えてみたら「自死遺族の希望の会」も「こころを休憩する会」も、その思いで続けているじゃないか。

家族や友人、職場の同僚など、日常生活を共にしている人ができることは何だろう、
黙っていても現れる本人の“後ろ姿”に現れる毎日の生活や健康の変化に気づき、対応することだろうか。
でも、悲しいけれど、同じ苦しみを経験することはできない。。。これが限界だろうか。
ならばせめて、当事者同士が安心して語り合える場を本人と共に探し、背中を押して送り出してあげて、見守ってあげることだろうか。

私自身は、このようなことが何もできないまま娘を亡くしてしまいました。
だから、答えはずっと出ないままです。娘と話せるなら、ぜひその答えを教えてほしい。

残酷な座間の事件が二度と起こらないことはもちろんですが、
これをきっかけに「死にたい」と思う人が、安心してその気持ちを吐き出し、「自分だけではない」と思える安全な場所が増えていくことを願わずにはおれません。

 

過去をふりかえるそのときも、時間は前に進んでいく