広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」

自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い

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ブログ風 日々のつれづれ

ジレンマに陥る

色々な困難を抱えている人の話を聞くと、つい思い入れをしてしまう。
特に心の問題にからんで家族との軋轢、孤立や生活苦が重なり、何重苦にもなっている人。

傾聴ではその方の生活上の困難が解決しない、専門の助けが必要な方。
うまく自分の困難が語れない人に代わって、色々な担当者と話をすることもある。
「原則のルールはわかるが、目の前の『原則では解決しない人』のために柔軟に対応してもらえないか」と話しているうちに、つい感情的な話し方になってしまう。

「こんなしんどい思いをしているんですよ」「私はそんなことは聞いていませんよ」
(そうでしょうよ、ルールに忠実に、無理無駄ない仕事を「よし」とされている人には心の内は言いませんよ。ホンネを聞くつもりもないでしょ。)
頭が熱くなっていく。

でも結局「今のルールでは無理」という、絶対的な結論は変わる由もなく、
私がアホなんだろうか?私は物分かりの悪いクレーマーなのか?
目の前にいる生身の人間への「お気の毒だ」という思いでつんのめってしまって
勝てない戦いにやっきになって、と後味の悪い自己嫌悪だけが残る。
分かっているのに反省して冷静になれない(ため息。。。)

 
2020年01月07日 19:17

衰えていく自分と付き合いながら来年も頑張ります

今日で2019年も終わりです。

自分の今年を振り返って、一番大きな出来事は、脳の記憶障害を起こしたことです。
2月、県内で講演中、突然、一過性全健忘という発作を起こしました。
一過性全健忘というのは、突然、直近の一定期間の自分の行動の記憶が頭から抜き落ちてしまう症状で、
分かりやすくいうと、突然「ここはどこ?私はここで何をしているの?なぜここにいるの?」という状態です。発作中の言動も記憶から抜き落ちてしまいます。
わかりやすい説明がWebにあります。
https://doctorsfile.jp/medication/20/
 
私から突然このような訴えの電話が出先からかかってきた夫はびっくりして、本当に怖かったと今でも言っていますが、私はその電話をかけたことさえ今でも思い出せません。
数日後に脳神経外科でMRIを撮ったところ、脳の海馬に脳梗塞が見つかりました。
以降、脳梗塞の薬を欠かさず飲み(血液を固まらせないようにする薬なので、出血すると止まらない、知らないうちにできている内出血のために腕や足にしょっちゅうあざができる、、、)ながら生活しています。

海馬とは脳の中で記憶を司っている場所。
記憶力に障害がある、というのは傾聴活動を続けるうえで致命的です。
傾聴した方が話したこと、自分が前回言ったことが、全てではないけれど、細かいことが記憶から抜け落ちてしまう。
約束した日時を忘れる。顔や名前を忘れる。
そのためにいつも、頭の中では焦って冷や汗をかいている。
事務的なことやスケジュールは、ひたすらメモをとることで被害を最小限に食い止めていますが。。。
聞いたことを全てメモにとることはできないし、まして自分の言ったことを書き留めることはできません。
いつも自分が何かを忘れているのでは、そのことで人に迷惑をかけているのではと恐れています。
「忘れる」のは、脳梗塞が原因なのか、単に脳の老化なのか、元々の粗忽な性格のせいか、色々なことをいっぺんに考えたり実行しなくてはいけないので、そもそも脳のキャパシティオーバーなのか。。。
2か月に1回の診察のたびに主治医に不安を訴え、若年性認知症の検査も受けたい、とお願いするのですが、なぜか、あまり真剣に取り合ってくれません。
 
いまのところ、一過性全健忘の発作は再発していませんが(再発の危険性は少ないらしい)。。。
 
老いる、ということは、こういうことだとしみじみと感じます。
数年前には緑内障を発症し、いつ悪化するか不安な視力とつきあいながら目を使っています。
今度は、記憶力です。「忘れる」こととつきあいながら生きていかなくてはいけません。
時々一人でいるとたまらなく不安になりますが、
「将来のことを過剰に心配しても、先のことはわからない。今を一生懸命生きるしかできませんよね」と他人に言う言葉を、自分にも言い聞かせて、なるべく周りに迷惑をかけないように、来年も生きていこうと思います。

なんだか、情けない、2020年の抱負になってしまいました(笑)
 
2019年12月31日 16:12

負のスパイラルに陥る前に

こころのともしびに来られる方の中には、自分を責めながらそのことが「他人に聞かせる価値もない」と思い込み、自分で全て抱え込む、という「負のスパイラル」にはまってしまっている方が多い。
そんな方に、私たちスタッフは少しでも楽になってもらいたいと傾聴をしているつもりなのですが、時々、知らないうちに自分自身がその「負のスパイラル」にはまってしまうことがあります。
 
「こころのともしび」の活動で全ての方のこころの問題が解決する、などと大それたことは考えていませんが、
間違った応答や態度で「あの方を」かえって苦しめたかも。
「あの方の」真に求めていることが果たせず失望して帰られたかも。
「あの方は」居心地が悪く過ごしていたかも。
「自分の偏った考えで、この場所を居心地悪いものにしているかも。」
それは全て私の責任だ。
そんな自己嫌悪感が頭を支配することがあります。
 
頭を抱えて「悪いのはお前だ」「お前は無力だ」「お前は人の気持ちがわかっていない」「お前は心が冷たい」「お前は軽率だ」「お前が間違っている」「全てはお前のせいだ」と責める声がぐるぐると回り出し、頭の中を支配します。
そんなときは、どんな励ましも、気休めのうそを言っていると思えるし、
感謝の言葉に対しても「これはほんの一部の人だ。その数倍数十倍の人が不満に思っている」と思い込み、頭の表面を上滑りしていきます。

「自分はまた人を傷つけるかもしれない」と他人の顔を見ることさえ怖くなります。
 
そんなとき、どうやってその負のスパイラルから抜け出すのか。
それは、「他人に自分の恥や罪を聞かせるのは恥ずかしい」「軽蔑され、責められるのでは」という思いを脱ぎ捨て、心を裸にして、恥でも罪でも聞いてもらうことしかないのでは。
 
9月まで「こころのともしび」で気功療法をしてくださっていた尾堂桂子さんのサロンを訪ね、思い切り心の内を聞いてもらったことがあります。
尾堂さんは、私の想いの吐き出しを傾聴してくれて、ほがらかに笑い飛ばしてくれました。
そして、脳の中の「感情をつかさどる部分(右耳の上にあるそうです)をほぐしてくれて、
「ああこんなにここがパンパンになっていたら、ネガティブ思考が頭の中でぐるぐるして、いい考えが脳に全く入ってきませんよ、これじゃどうにもならない」
「こういう状態になったらすぐ来てね。危なかったよ。」と言ってくれました。
不思議と、とても楽になったのです。
 
日々、自分1人で頑張らなくては、と思いやすい方。
特に立場上、常に正しく清く強い人間であることが求められ(ていると思いがち)、弱音が吐けない、間違いが許されない(と自分で肩に力を入れてしまいやすい)方。
ぜひ重い鎧を脱ぎ捨てて、話を聞いてくれる人や場所を探してください。
2019年12月02日 20:02

自死遺族は涙を隠して静かに生きているのが“普通”なのか

時々、というか、結構頻繁に
「『自死遺族なのに』こういう活動をされて、えらいですね」とか
「なぜご自分も辛い思いをされているのに、こういう活動ができるのですか」
と言われることがあり、なんと答えたものか戸惑うことがあります。
 
でも、例えば、
事故や事件で家族を亡くした遺族が、再発防止のために社会活動をすることもある。
大きな自然災害で家族を失った当事者が、復旧に立ち上がると共に予防のために国や地方行政に呼びかけながら、被災者同士が助け合う運動に参加することも多い。
辛い経験をした当事者だからこそ、二度と同じ悲劇が起きないように、社会に問いかけたい想いも強い。
そのような活動をしている人に、「なんで被害者がするのですか?」という問いはあまり生まれていないと思うのです。
 
一方で自死遺族にはこの問いかけが生まれる、というのはやはり「自死」に対する特殊な見方があるのではないかと思うのです。
「自死は恥ずべきもの、隠すべきもの」という『世間の偏見があるのに』(実はそう思う人自身の偏見だと思う)『それを跳ね返して堂々と活動する人間への違和感』(「え、なんで気にしないの?」)でしょうか。
 
私が活動の最初から自分の顔も名前も、娘の名前も写真も公開していたことを「よく勇気がありましたね」と驚嘆されることも多いのですが、そのときは
「自死した人も遺族も、他人や社会に対して、何も悪いこと、恥ずべきことはしていない。そのことを自分自身が証明したい、という思いで全てを公表しました。」と答えています。
 
私は、娘の自死で自分の人生を全て見失った思いで過ごしていた日々の中、半年ほど経ったときに娘が生前私に遺していたものが偶然見つかりました。
そのものによって「娘は、私に『何かをしてほしい』と託している」と思いました。
(単なる思い込み、と他人に言われても構いません)
だから、何かをしたい。医療福祉の分野に全く素人の自分でも何かできることをまず「一歩」でも。とおもいました。
それが「小さな一歩」の源流です。
2019年11月17日 17:23

「昔のこと」ではない。自死遺児たちの長い年月

小さな一歩の自死遺族の希望の会に集う遺族の方々は、1~2年前に家族を亡くした方がやや多いのですが、何十年も前の子どもの頃、親御さんを亡くした方も来られます。

日本で過去に自死が急激に増加したのは平成10年。
特に不況下で経済的・精神的に追い詰められた働き盛りの男性の自死が急増しました。
自死遺族支援も含めた自殺防止対策に国が法制化したのは約10年後。
社会に少しずつ浸透していったのは、さらにその後です。
かつての自死遺児、いまは成人した自死遺族の多くは、自死への偏見が強い世の中で親の自死の悲しみを語ることもできず、あるいはまた、自死であることを大人たちから隠され、遺族に対する生活面、精神面のケアも受けられずに大人になりました。

いま、やっと自らの自死遺族としての人生を語ることが、多少でも許されてきた。
当時の自死遺児の1人が語ります。
「当時は白い目で見られるのが怖くて誰にも相談できなかったし、
話しても誰も聞いてくれず、偏見の目で見られた。
『遺族である親を助けてがんばれ』と言われることもあった。
自死遺族としての『自分のいままで』をやっと語れるいま、『昔のことじゃないの』と言われるのがつらい」。
(※発言内容の一部をこのブログで公表することについてはご本人の了承をいただいています)
先日、私は岡山県の社会福祉士研修の「自死遺族支援」の講義を承ってきましたが、
その「講義用教科書」には
「自死遺族の心理的悲嘆は死別に伴う自然は反応だが、これが長期化・重篤化(例えば1年以上状態が改善しない)状態である複雑性悲嘆(以下後略)・・・」とありました。
私は、この一文を否定しました。
「このような『期限の目安』は、『もう1年たったのだから』『いつまでも悲しんでいないで』『もう昔のことではないか』という考えにつながり、遺族をかえって苦しめる。」
また、こうも言いました。
「悲しいのは愛しているからです。悲しみを薄めることは、その人への愛を薄めることにもつながる、と思うから遺族はいつまでも愛しながら悲しんでいるのです」

尾道市で新たに自死遺族の自助グループ「陽だまりの会」が発足します。
10月27日が初回の会合です。
広島県内の他の自死遺族の会とはまた違う味わいの会になるのではないかと期待し、応援したいと思います。
2019年10月17日 19:59

再会の喜びが胸にしみたミニライブ

先日、以前にともしびに来られていた方からミニコンサートのお招きをいただきました。
こころの状態が悪い時、夫婦で来られた方。
ご本人と、寄り添う朴訥なご主人の姿勢も印象に残っている方でした。
ミニコンサートとはいえ、15曲もの演奏リスト。
体調もいつも良いわけでもなかったでしよう。
そんな中で2人で練習を重ねる努力、気力に思いを馳せながら聴いていると、
お2人が歩んできた、平坦でない道のりに目頭が熱くなりました。
共演ゲストは、病気で半身が不自由になられた片腕のピアニストの弾き語り。
長年付き添った夫婦の、こころの琴線を歌う自作の曲は心を打ちました。
コンサートはコスプレあり、楽しいMCあり。楽しみながら、
よくここまで準備したと感動しました。
最後に、小さな一歩についてわざわざご紹介くださいました。
「行く時にはいつもすごくエネルギーが必要だった。身体も重かった。
でも、行かなくてはいけない気持ちと、行けば何かがある、という期待から、
重い体にムチ打って行っていた。
黙ってたくさん話を聞いてもらって救われた」と言われました。
そのとき、当時の姿をまた思いだし、涙が滲みました。
 
しばらくご無沙汰だった方がともしびを忘れずにいてくれて、呼んで下さったことで、
私たちがすごく勇気と励ましをいただきました。
 
日々傾聴を続けているとうまく話が噛み合わないこともある、
「しっかり寄り添えなかった」と自分を責めて後悔することもたくさんある。
連絡もなく、突然来られなくなって、どうしているのだどうと気がかりな方も多い。
そんな時は、心配もするし、我々に落度があったのかと悶々とします。
それでも、続けることで、誰かが少し元気になるのかもしれない。
そんなことをしみじみおもいながら、過ごした2時間でした。
(ご本人の了承をいただき、写真も紹介しています)
2019年09月30日 18:18

死への恐怖がゼロになるとき

先週末の「こころを休憩する会」にお子さんのこころの病に悩む親ごさんが多く来られました。
死にたい、、自分には生きる価値がない、、死んだ方がましだ、、、生きていてもいいことはない、、、
このような子どものこころの叫びを受け止める辛さを聞いているうちに、8年前の娘と私のことが脳裏に蘇ってきました。
 
娘も腕に沢山の自傷の傷を作り、「死ぬ」と言って家を飛び出したり、自分を痛みつけたり、
そんな行為を繰り返していました。
 
心が浮かび上がったり、落ち込んだりを繰り返していた頃、
娘が生きていくために唯一すがっていた希望が断ち切られる出来事があった。
彼女にとっての“心の命綱”がぷつんと切られてしまった。
 
私が最後に娘と言葉を交わしたとき、その顔は笑顔でした。
横にいた私に“ちょっとした頼み事”をしました。
私は娘の落ち着いた話しぶり、すっきりした笑顔にすっかり安心しました。
“その頼み事”を果たすためにいそいそと娘のそばを離れました。
娘がビルから飛び降りたのはその、わずか10分ちょっとの時間でした。
 
完全に死ぬことを決めて、迷いが0%になった、その表情が私が最後に見た笑顔だったのでしょうか。
人間として一番重い「こころの病の症状」とは心の中が「死」に完全に支配されてしまい、恐怖を感じることができなくなることではないでしょうか。

分かち合いの場で私は言いました。
「死にたい」と訴えて続けてきた人が、状態が好転しないのに急にそれを口にしなくなった時が、一番警戒する時かもしれない。
なぜなら「死」を決心したら、止めてほしくないから、回りを安心させるためにむしろ元気を装うのです。
 
「死にたい」という言葉に対して「死んではいけない」「すべきでない」ではなく、
「死」とはどういうことか、必死に語って下さい。
死んだら楽になるかもしれない。でも「楽になった」と感じることはもうできない。
死んだらあなたを苦しめてきた人に少しの仕返しができるかもしれない。でも、仕返しができたことを確認することはもうできない。
死んだら沢山の人が泣くだろう。でも、その泣いた姿を見ることはできない。
死んで、自分の正義を証明できるかもしれない。でもその証明できたことを知ることはできない。
 
そして「あなたが死んだら私がどんなにか苦しく悲しいか」その気持ちを必死に語り続けてくださいと。
2019年08月14日 11:39

一言の言葉がもたらす重い功罪

「ともしび」に、1人の方が訪ねてこられた。

体調がいいときは「こころのともしび」にも遊びに来るが、重いうつ病で体調が安定しない。
死にたい気持ちが高まることもたびたびあり、気持ちが抑えられない夜、よく電話をかけてこられていた。
深夜にかかる電話。その方の名前が携帯電話に表示されるとどきっとする。
電話に出る。
手の届かない距離にいる、その方の「死にたい気持ち」にどう答えたらいいか、緊張する。
その気持ちを抑えながら、まず、「死にたい気持ち」を否定せず受け止める。
そして、
「『ずっと生きなくてはいけない』と考えなくていい、でも生きていたらまた私たちに会える。
次に「ともしび」で私たちと会える日までは、とりあえず生きていることにしよう。
約束も予約もいらない、いつでも私たちはあなたを待っているから、調子が上向いたらここで会おう。
そう思って、その日までは生きていよう」と、言葉を絞り出して呼びかける。
 
必死なので、他に何を言ったのか、正確には記憶していなかったが、
久しぶりに来られたときに、
「この時に、米山さんにかけてもらったこんな言葉を胸に刻んでいたから死ななかった」と、とても、細かい言葉まで覚えていてくれていることに驚いた。
 
人は自分が言った言葉は忘れても、他人が言った言葉はよく覚えている、と聞いてはいたが、
ここまで心に刻んで、死にたい気持ちを抑えて生きていて下さっていたかと思うと感動し、涙が出た。
 
逆もあるだろう。

言葉を発した人が忘れた一言が、言われた人の胸をえぐり、心に回復できない痛みや怒りが無くならない、そんな人の訴えを聞くことも多い。
往々にして、そのような痛みや怒りは、言葉を発した本人に返ることはなく、陰で拡散していく。
 
メールも含め、書き言葉は見直して、修正して伝えることができるが、口から出る言葉は取り戻せない。

言葉がもたらす、感動も喜びも怒りもトラウマも、ほとんど「口から発せられる」もの。

人と人との諍いを両側から聞くと、傷つけた人は「自分は間違ったことは言っていない」と発言の主旨の正当性を主張する。
傷つけられた人は「○○と(いう表現)言われた」と、一言の表現が脳裏に焼き付いていることがほとんどだ。
 
それだけに、いかに聞く相手の立場や心中をおもんばかって、言葉を発することが大切か、それが問われているのだろうと、改めて身に染みて思う。
2019年07月10日 18:42

8年たって思えること

201906212

先週木曜日、6月21日は娘の8回目の昇天祈念日でした。

毎年のように、多くのお花をいただきました。

送ってくださった方々に、いただいたお花と共に、それぞれの方と娘が並んで映っている写真のスライドをカメラで撮ってお礼状として送りました。

その撮影のために、娘が産まれてからの25年間の写真を何度も見返しました。

 

自死遺族の会で時々聞かれること。

「8年間で、どのようにお気持ちが回復してきたのですか?」

 

回復、という言葉では語れない8年間だったのでいつも言葉に詰まっていたけど。

 

ただ、8年目で気づいたこと。

以前は、娘が元気だった頃の写真を見るのがつらかった。「あんなに元気に生きていたのに、かわいそうな最期だった。そんな最期にしたのは私のせいだ」と思ってきた。

でも、今回、写真を見ながら、「最期はつらく悲しい別れだったが、25年間は、その時その時を一生懸命生きた人生だった」と、ふと思える自分がいました。

 

8年間、欠かさずお花を送って下さるような、よき友人にも恵まれていた人生だったと。

2019年06月26日 19:08