広島市社会福祉協議会から感謝状をもらいました
先日、「広島市社会福祉大会」で表彰状をいただいて帰りました。
表彰された方が400人(団体)もいらしたので、そのスケールにびっくりしましたが、
とりあえず、いままでのように「怪しい団体化も」「怪しい宗教やさぎ商法かも」と疑われることが少なくなるかな(笑)、
と「ともしび」の壁にかけておくことにしました。
広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」
自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い
活動の主旨と主な内容 ≫ ブログ ≫
先日、「広島市社会福祉大会」で表彰状をいただいて帰りました。
表彰された方が400人(団体)もいらしたので、そのスケールにびっくりしましたが、
とりあえず、いままでのように「怪しい団体化も」「怪しい宗教やさぎ商法かも」と疑われることが少なくなるかな(笑)、
と「ともしび」の壁にかけておくことにしました。
「過去の自分の過ちが忘れられなくて、自分がどうしても許せない」と話す人に私は「過去は過去。過ちはあったかもしれないが、あなたはもう償っている。今すべきことは、過去を『振り切って』、今とこれからを大事に生きることではないか?」と問う。
でも、私自身が、過去の過ちから逃れることができていない、というより、私は、むしろ、意識して『過去の罪』を忘れず、贖罪の道を選ぼうとしている。
「本当はやりたくないことでも、頼まれるといやと言えない。いつも人の顔色を見ている。休みの日は体を休めて自分の好きなことをしたいのに、嫌われたくない、とか、自分がやらないと困るだろうと考えて、頼まれると断れず、体も心もへとへとになるまで動いてしまって疲れ切ってしまう。」と訴える人に私は「他人の目や周りの評価などの『他人視点』より前に、自分が何をしたいか、どう生きたいか、という『自分視点』で物事を見ていますか?大事なのは『自分』を主語とした行動や考え方では?」と聞き返す。
でも、私自身はいつも疲れを感じる。自分の希望や生きやすさを考える『自分目線』より、『他人目線』で行動していることがほとんどだ。その結果、誠意や努力が報われず、時には逆恨みさえされる。そんな中で、ボロボロになるときもある。
私がもう一人の「私」から助言を受けたら、『そんなことができたら苦労していないよ、傾聴になんか来るもんか』と逆ギレしているかもしれない。
還暦を迎える私に、意外な(笑)人から誕生日プレゼントがありました。
会社の社員一同から。
25年、この会社を経営してきましたが、いつもガリガリの仕事をしてきた。
毎月お誕生日会をするような、のどかでアットホームな会社というわけでもなく、
社員の誕生日にお祝いをあげたこともなく。
私自身もほとんど初めてじゃないかな、誕生日のお祝い。
小さな一歩の活動と会社の仕事。2つの行ったり来たりの毎日。
もともと100%の力でやっていた会社の仕事に時間もエネルギーも、半分も使えなくなった私。
バタバタする日々でケアレスミスも増え、営業力も仕事への自信もがた落ちになりました。
ほんと、社員には迷惑かけっぱなしで肩身が狭い思いをしてきました。
「どんな目で、この経営の惨状を見ているのだろう」と不安になりました。
そんな中でもらったプレゼントは胸にしみました。
私は自分の決めた道のために、「小さな一歩」のスタッフに本当に毎日助けられているけれど、
本業を“ほぼ空席”にしている私の後ろでしっかりと業務を守ってくれる会社の社員に助けられていることを忘れてはいけない。
改めてそう思いました。
その人は泣いていました。
始めはすすり泣きで、やがてしゃくりあげながら。
乗り越えたい、乗り越えなくてはいけない壁がある。
元気ならば、ほとんど意識することなく、ひょい、とまたいで渡れる壁が、どうしても越えられない。
越えられない自分が情けない、悔しい。
越えようと思うと、訳もなく怖くて、うずくまって泣けてしまう。
始めはそっとしておく方がいいのかと、声をかけませんでしたが
あまりにも辛そうなので、「どんなん?」と声をかけました。
細い肩、やせた背中が震えていました。
「がんばれ」とも「無理しなくてもいいんじゃない」とも、何も言葉にすることができない私は背中をさすり、手を握り、胸にトントンと手を当てながら
「子どものときのように声をあげて泣いていいんだよ」と繰り返すだけでした。
不思議な感覚が記憶によみがえりました。
色々なことでつまずいては泣き続ける娘たちをよく、こうして、さすったりなぜたりトントンとしていたこと。
自分自身も昔、泣いていると、母が抱きしめて背中をさすってくれたこと。
どれくらいそのようにしていたでしょうか。
その人は少し気持ちが落ち着いて、「気持ちを切り替えます」としばらく1人でいて、帰りました。
その後、その方からは壁を乗り越えることができた、と報せをもらいました。
「よかったね!」喜びと共に、背中をさすっていた短い時間によみがえった、
懐かしく温かい、私自身にとって大切な記憶を、忘れないでおこう、と思ったのでした。
7月6日の「自死問題シンポジウム」、7月18日には広島県北部保健所で「自死遺族支援のための研修会」と続けて自死遺族支援について話をしました。
北部保健所の研修会では自死遺族としての自分がなぜ今、自死遺族支援や希死念慮のある人やその危険可能性がある方の支援をしているか、というMyhistoryを話した後、テキストに沿って基本研修をしました。
今までも何度か自死遺族支援をテーマに話をしてきたけれど、個人的に思うことは、この場に出席している方々が、どの程度現実に「自死遺族」が“わざわざ訪ねてきて支援や相談を求められる機会があるのだろうか”、ということです。
専門職であれ、民間ボランティアであれ、地域の福祉担当者であれ、日常的に「自死」に直面する機会で一番多いのは、近隣地域や身近な人の周りで起きた「自死」という出来事を間接的に知ることではないでしょうか。
その時、お仕事などの「公人」である以前に、一個人として、「自死」に対してどういう思いを持つのか。
直感的にでも、偏見やスピリチュアル的な恐れを抱かないか。
自死は、事故死や災害死と同様、予期せぬ突然の死の訪れとして悲劇です。
でも、なぜ「自死遺族支援」だけが独立して論じられるのか。
それを“個人”としてまず振り返ってほしいと思いました。
1時間ほどの講義の後、ワークシートを配り、このことを問いかけました。
課題は
「①貴方が住んでいる集合住宅の隣の家の人が自死で亡くなり、日がたってから発見されました。そのことを知った時、あなたは瞬間的にどう感じますか?
②貴方の同僚が上司のパワハラと過労のためうつを発病し、過労自死されました。上司は「あいつは心が弱かったから自死したんだ」とあなたに話かけます。あなたはどう答えますか?
③貴方は借家を探しています。家賃の安い物件が見つかりましたが、不動産屋さんは「ここは数年前に自死があった【心理的瑕疵物件】なので家賃を安くしています」と説明しています。住居内は全てリフォームされ、きれいな状態です。あなたはどう感じますか?
④貴方のお子さんが「結婚したい」と恋人を連れてきました。聞いたところ、親族の複数の方が自死で亡くなっています。あなたはどのように感じ、子どもさんにお返事しますか?」
グループワークや発表は不要なので、自分自身の心に問いかけて下さい、と話しました。
どれも、「自死遺族の希望の会」に参加した遺族が、ある時は直接的な言葉で傷つけられ、ある時は「このように思われるのでは」と恐れを抱いて自死を隠す原因になっている出来事です。
突然の死という悲劇、遺された者の悲しみはは事故死も災害死も同じかもしれない。でも自死遺族を孤立させる「一人一人の個人としての目」。
自死遺族支援を考える人に、まず、自分の心の中を振り返ってほしいと思います。
最近、精神障害で苦しむ若い方々に関わることが多くなりました。
関わりの中で、その方のお母さんと話をする機会も多くなりました。
つくづく、母親とは、大変な役割だと思う。
「ご迷惑をおかけし、申し訳ありません」と背中を小さくして謝るお母さん。
「どうしたら子どもを救えるのでしょうか」とすがるように語るお母さん。
いたたまれない思いを言葉にすることもできず、ため息をつくお母さん。
言葉を失うことが多い。
一方で、その大変さを身に背負い、逃げない母親たち。
大変だからここらで勘弁して、は決して考えない母親たち。
見た目ではわからない、すごい力を内に込めていると感じます。
遺伝子の中に埋め込まれた「母性」の力でしょうか。
一方で、若い母親による幼児虐待死の事件などを見ると、本当にいたたまれない気持ちになります。
一番守ってくれるはずの人間に裏切られ、死に追いやられた子どもの絶望はいかばかりだろうか。
私も、もっと娘のために、右往左往して、おろおろしながら、根性で守ってあげたかったな。
もっと時間が欲しかったな。
もっと一緒に苦しみたかったな。
そんな風にも思うのです。
聖書の有名な言葉に
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
という言葉があります。
聖書上の意味はイエス・キリストが、十字架にかかる前夜、自らの十字架の死の意味を弟子に諭した言葉です。
私はこの聖句から「1人の人間が、生きている時より、死によって多くの人の中に大きな意味を残す」というようにも考えます。
また、私の好きなエッセイ集「知らされない愛について」(岡知史 著)の中にはこんな言葉があります。
(何度もブログに載せていますが)
「失われた命の意味について」
死んだ人はしばしば生きている人の誰よりも、人を動かす。
生きている人に応えようとして動く人は少ないが、死んだ人に応えようとして動く人は多い。
なぜなら生きている人の命は生きている人本人のものだが、
死んだ人の命は生き残った人たちのものだからである。」
6月21日。
娘が昇天して丸7年。
この日に「小さな一歩」を設立して丸5年。
娘が生きていたら、私は何をしていただろう。
平凡に、平日は仕事をして、週末は映画やスポーツジムに行っていただろう、
何も疑問に思わず。
カウンセリングにも社会福祉士にも無縁の生活だっただろう。
自死遺族にも、死にたい気持ちを抱える人にも、心の病に苦しむ人にも、お金も家もなくさまよう人にも、家族のDVにさらされて命の危険を感じる人にも、虐待された人にも、自分の性癖が治せず苦しむ人にも、
誰一人会うことはなかっただろう。
娘の死は、地上に落ちた麦の一粒のように、新しい麦の穂を育んでいるのだろうか。
娘に「ありがとう」とは、言えないけどね、まだ。いや永遠に。
★ちゃん
たくさんつらいことがあったね。
あなたは何も悪いことをしていないのに。
あなたが、なんでこんな不公平に苦しみを味あわなくてはいけないんだろうね。
本当に怒りがこみあげてくる。
でも、そんな日々の中でも、あなたはがんばって明るく笑って話してくれたね。
「私は負けたくない。」と頑張っているね。(それがちょっと心配だけど)
この前、
「私、福祉の仕事を目指す。そして米山さんの手伝いをする!」と言ってくれたとき、
本当は涙が出るほどうれしかったのに、照れ屋でひねくれ者の私はうまくお礼を言えなかったこと、今も後悔しているよ。
★ちゃん。
聖書にはこんな言葉があるよ。
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。」
ただ「我慢をすればそのうちいいこともある」いう意味ではなく、
「苦難の中にあってこそ自らを強く深く見つめる人には、神様が苦難を乗り越えさせて下さり、
希望を与えてくれる。
そのようにして得られた希望は自分を決して裏切らない」
という意味と私は信じている。
私が一番つらかったとき、この言葉を何度もつぶやいたよ。
そのときは「本当に『希望』なんて手にできるのかな」なんて、半分は疑っていたけどね。
★ちゃん。
あなたが、この苦難の中から、いつか希望の道を見出した時、
私に会いに来てくれて、一緒に道を歩んでくれたら本当にうれしいよ。
でも、あなたが、本当にあなたらしく、希望の道を歩むとき、それが全然別の道でも、いいんだよ。
私たちのことをすっかり忘れてもいいんだよ。
あの時、あの場所なんか、思い出したくない、そう思ってもいいんだよ。
★ちゃんならきっとできると信じている。
あなたのために、私は祈ろう。
活動内容、お知らせなど
NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしまモバイルサイトへはこちらのQRコードからどうぞ!