広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」

自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い

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ブログ風 日々のつれづれ

離れていた人々をここに集めるがごとく

一昨日の6月21日、娘の4回目の墓前礼拝を広島教会の墓地で行いました。
娘の自死がきっかけになって、長く交わりを断っていた親族が
1年に1回、この日に集い、娘を想い、お互いの1年間の無事に安堵し、
また来年まで頑張って生きていよう、と声を掛け合います。

牧師が礼拝説教の中で
「この悲しい出来事が、離れ離れになっていた人々を集め、想いを共にする機会を作った。
あゆみさんが皆さんを再び引き合わせてくれているのです」

昔から、自分自身のことをなおざりにしても、お友達やグループのことを考える子だった。
歩美らしいね。
家にも、お友達からの花がたくさん集まって、まるで、ここで再会したように見えました。

多くの花と多くの人の想いに包まれた日でした。

生きている間にこのことに気づいてほしかった。
「あなたのことを愛し、思っている人はこんなにたくさんいるんだよ。
そのことに振り向いてほしかった。
あなたを愛する人のために生きていてほしかった。」
2015年06月23日 10:32

6月15日、「こころのともしび」、たどたどしい足取りの第一歩でした

「いまの自分たちでできる」最良のことを

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「こころのともしび」開業に向け、一昨日は家具の組み立てや本、食器などの搬入、
昨日はスタッフ全員ミーティングを行い、いよいよ6月15日の活動開始に向けた準備が整ってきました。

3月末に鎖骨を骨折した私は、つい最近まで、重い荷物を運ぶことができず、
ほとんど「がら空き」のような部屋でしたが、人が集まり、物が整うと、
一気に、魂が吹き込まれたようです。

スタッフは総勢16人になりました。

元々、福祉や介護の専門家でもない自分の思い込れから始まった計画。
料理が得意でもないのに「暖かい食事を提供したい」と言い張り続けた勝手な自分。

そんな、思い入れだけで突っ走った私を支えるために無償のボランティアとして集まってくれた方々。
看護師、薬剤師、気功整体師、占い師、中小企業診断士、調理師、グリーフケアカウンセラーなどの有資格者。

昨日はスタッフ全員を前に、思わず感極まって声がつまってしまいました。

これからはスタッフ全員、息長く手を取り合い、互いの力を認め合い、
互いの不足は補い合いながら進めていきたいと思います。

理想の形に対しては、スペースも狭く、時間も資金も限られ、まだできないことも沢山あります。
たどり着くには、時間がかかりますが、「いまの自分たち」ができる最良の形を常に求めていきたいと思っています。

2015年06月08日 16:42

法的に間違っていなくても人として間違っている

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先日、ある自死遺族の方が、「今日が1周忌で、、」と電話をかけてきました。
その方のお話は以前から何度か聞いていたけれど、
初めて聞く事実に、心が締め付けられるような衝撃を受けました。

2人暮らしで仲良しだった。
少し前から「うつ状態」であることは知っていて、特にここ数日、様子がよくないと思っていたが、希死念慮には全く気がつかなかった。
今日はちょっときちんと話をしようと思った矢先、目を離したわずかの間に、投身自殺を図った。
あまりにも突然で、部屋にいないな、と思いながらそのことに気づかないほどだった。

倒れている姿を近所の人が通報し、警察が来て気づいた。
駆け寄った時、まだ意識がわずかにあり、苦しんでいるところに駆け寄ろうと思ったら
警察に止められた。体に触れることさえ許されなかった。

「突き落とした容疑者」として拘束され、長時間の取り調べが終わったときにはすでに故人となっていた。
声をかけることすらできなかった、臨終に立ち会う人が誰もいなかった。

「痛がっている体をせめてさすってあげたかった。今でもあのときの声が耳を離れない」
「自死するほど苦しんだこともかわいそうだったけど、最後に本当に痛かったろうな。と思うと、それがかわいそうでならない」

深夜の電話口の声は涙で途切れました。
「ここまで細かいことを話したのは米山さんが初めてです。話せてよかった」と言われて涙が出ました。

状況は私の娘とよく似ていました。
娘は発見されたときにすでに意識不明で、その後目を開けることはなかった。
「もう助からない」と医師に告げられた時、「本人はいま、痛みを感じていないのでしょうか」と聞きました。
「ご本人は気持ちよく眠っているのと同じ状態です。痛みも苦しみもありません」
それが唯一の救いだったかもしれません。

それだけに、この方の話は「これが自分だったら」と思うと(平凡ですが)胸が張り裂けそうでした。

それにしても
自死遺族の二次被害からの救済の動きはあるけれど、
ろくな取り調べもせず、見込みでその場で拘束し、最期にも立ち会わせなかった警察の非人道的な対応。
これに対して、何のとがめもないのでしょうか。

2015年06月03日 11:03

遺骨

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先週の土曜日、ある自死遺族の方と一緒に亡くなったお母様の一周忌のお墓参りに行きました。
亡くなった後も家庭の事情が複雑で、家族そろってのお墓参りができなかった、
他の親族がその方を誘うことなく法要をすませてしまったのです。

自分の足で墓参りに行けない方で、とても落ち込んでいたので車で一緒に行きました。
山あいのお寺にある墓地に、お母様は合同納骨堂に合祀されていました。

遺骨の一部をいまも手元に持っているその方は、合祀されたことが悔いとして残っていて、
「母と自分が2人で入れるお墓を建てたい」とぽつりと言われました。

その方にとっては少なくない出費です。
それでもその意志は固いようでした。
「かなうといいね」と、墓地の中の空き区画を一緒に見て回りました。

私も娘の遺骨の一部は今も自宅に置いています。
自分が埋葬される墓に、隣に置いてあげたいのです。
そうすれば、天国でまた隣に並べるような気がします。

初夏の山寺は緑と花に囲まれた静謐の中にありました。

新緑が美しいほど、青空が澄んでいるほど、風がさわやかで気持ちいいほど、
その中にいると
そのような美しい季節に背を向けて、暗い部屋でうずくまっていた娘の姿がよみがえるのです。
2015年05月27日 20:31

「死にたい」と訴えられたら

思春期の子どもの「死にたい」気持ちが強く、何度も自殺の手段を入手しては未遂(の未遂)を繰り返す、と
訴えの電話が同じ人から何度かかかった。

様子を聞いてみると、「死にたい」という気持ちは、
今自分が置かれている状況が、二者択一しかなく、左に行くのが「正しい道」、でもしんどくて歩く力がない。
右に行くと「楽かもしれない」、でもその道を選ぶ自分が情けなくて許せない。
どちらの道もつらい。だから「もう死んだ方がいい」。そういう気持ちだという。

心療内科では「病名」はつかなかった。また、希死念慮が強いクライアントに対して、心療内科は「腰が引けている」とのこと。


客観的な大人は言うだろう。
「そんなに思いつめなくてもいいじゃないの、左の道がつらいなら無理せず、気を楽にすれば。
人生、いろいろな選択肢があるんだから。左の道で成功しなくても、立派に生きて幸せになっている大人はいくらでもいるんだから」

その声は、本人には理屈でわかっていたとしても、心には届かないだろう。

暗闇で三叉路を見つめるように、二者択一しか見えなくなり、他の選択肢にまったく目がいかなくなる。
「ダメなら生きていても仕方ない」と思い込んでしまう。
周りがどんなに「こっちの道があるよ!」と声をからしても耳に届かない。
 

そんな時、近親者ができることは、とにかく耐え忍ぶしかない。

まず、自宅が高層階にないこと、縄を結べそうな鴨居や梁がないことを確認した。
刃物や火の元はすべて目の前から隠すことを言った。
「とにかく目の前に自殺の手段を入手しないように細心の注意を払ってください。
お子さんなんと言われようと、手段を入手しているようだったらすぐ捨ててください。」まずそのことを話した。

「死にたい気持ちは否定したり責めたりしないで、でも断固として実行させない覚悟を見せてください。
『あなたが死んだら、どれだけ私がつらいか』、本人の心に届かないとあきらめずに語り続けてください。
時として、寄り添う人間の方が気力がなくなって、キレそうになるけど、辛抱です。
歯を食いしばっても感情にまかせた言葉を言ってはいけません。
本人の心の中には、暗い暗い穴があり、その中に吸い込まれそうになる。嵐のような衝動が襲ってきて、
その嵐に身をゆだねた方がいっそ楽だと思っているのです。
その嵐を本人以外の人間が説得して失くすことはできません。
でも、その嵐が去るときが必ず来ることを信じて、辛抱して、備えをして、時を待つしか、横にいる人間にはできないのです。」

そう言うのが精いっぱいだった。
これはすべて、私が娘にすべきだったこと、そしてできずに死なせてしまった後悔からくる思い。
本人の年齢を聞いて、青少年のメンタルケアをしている(はず)自治体の精神保健福祉窓口に相談することを勧めた。

「すぐ来て!私が子供さんの話を聞くから!」と言えない自分の自信のなさを悔しく思った。

どうか、必死の親の思いを「専門機関」がきちんと受け止めて、必要な支援の手を差し伸べてほしいと思う。

2015年05月20日 18:23

自然のチカラに包まれる

おととい(5月9日)、「こころのシェルター」改め「こころのともしび」のスタッフミーティングを
豊栄の「もりのおうち」で開きました。
まさに季節は新緑、新芽の季節。
むせるような若葉の香りと、垂涎ものの山菜の芽、初夏の陽光、山を渡る薫風に囲まれた「もりのおうち」は
人知を超えた、自然が持つ「癒し」の力にあふれていました。

 

ああ、自然は大きい。
人間は自然のほんの一部で、
大きな自然の一部である人間の、その一部である「こころ」や「ことば」は
大きなものに包まれると安心感が体に満ちてきて、乾きが潤ってくることを感じる。

「もりのおうち」よ。いろいろな人の心をいやしておくれ、と呼びかけました。

午前中雨だったので、庭のバーベキューは屋内の鉄板焼きに変更になりましたが
スタッフの手作りの調味料やお料理が絶妙で、いい大人が競って食べてしまいました。

「やっぱりワイワイ言って食べる食事はおいしいね、「こころのともしび」でも大切にしたいね」と話し合いました。

ミーティングで
正式名を「こころのともしび」と決めました。(ラジオ番組に同じ名前がありますが、商標上は問題ないそうです)
パンフレットデザインの原案をスタッフのご主人であるデザイナーさんが制作してくれましたので
みんなで話し合い、ロゴマークとデザインについてリクエストしました。

オープン後のスタッフ間のシフトを具体的に詰めました。

「こころのともしび」、スタートまじかです。

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2015年05月11日 19:43

父が遺した「生き様」という遺産

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今日は父の2回目の命日でした。

父は1984年に、会社に在職中からクリスチャンパートナーズという、発展途上国の貧しい児童や学生の学費援助を行う国際ボランティア団体http://partnersinternationaljapan.blogspot.jp/
の日本支部を設立し、20年間近く理事長を務めました。
その間、自費を活動に投じてアフリカやアジアの各地を回り、現地の宣教師や子供たちとの交流を続けていました。

マザーテレサにお会いしたこともあります。

2012年に、全ての役職を後進に譲り、86歳で本当の隠居生活を始めた途端、足が不自由になり、その後、身体のあちこちの機能が急激に悪くなっていきました。

父は不自由な体になってからも、私が始めようとする「小さな一歩」のNPO法人化を気にかけてくれ、
1つの通帳分のお金をそのまま寄付してくれました。
しかし残念ながらNPO設立の直前の2013年5月5日、87歳で腎不全で天国に召されました。

死後に遺産を整理してみて、新入社員の年収程度のその貯金は唯一にも近いものであり、
他にまとまった金額の現金は貯金も保険金も株券も、何もありませんでした。

定年時にはある程度まとまった金額だったお金はほとんどすべて、
クリスチャンパートナーズの活動に費やしたのです。

父が残したものは、貧しさから教育機会に恵まれない子供のためにお金や労を惜しまず投じる
生き様だったと思います。

そんな父の生き方を、今になって私は誇りに思うようになりました。

父の死は娘の死から2年後で、今よりずっと娘の死が肩にずっしりとあった私には
「やりたいことをし尽して寿命で天に召された」父の死は、むしろ幸せな最期だったと思われました。

でも、今、小さな一歩の活動を進める毎日の中で、父のことを思うことが少なくありません。
もっといろいろ教えてほしかったし、見守ってほしかったと思います。

厳格で生真面目な一方で、お菓子が大好きだった父。
遺影の前に飾られた「どうぶつビスケットに囲まれて、なんだか可愛らしく見えます。

 

2015年05月05日 19:54

7年間支えてくれてありがとう

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4月30日、中区幟町の事務所から西区庚午北の新しい事務所に引っ越しをしてきました。
会社の事務所として7年間、小さな一歩の事務所が間借りしてから2年間。

元々幟町の事務所に来たのは、当時の不況で会社の経営が危なくなり、
閉鎖しようかと思いつめていた時に、その部屋の持ち主の取引先の社長さんが、
「古いマンションだけど、特別家賃で貸してあげるから、越して来たらいい。もう少し頑張れ」と励ましてくれたから。
周辺の家賃相場の半額に近い家賃で借り、その上「小さな一歩」の事務所まで居候させてもらう、
本当に好意に甘えっぱなしの7年間でした。

新しい事務所も、ビルオーナーの特別な好意で、相場よりかなり安い家賃で借りられることになり、
1フロアを2分し、会社の事務所と、小さな一歩の事務局兼「こころのともしび」を半分ずつ使う
私は両方の事務所を自由に行き来できる、という特別仕様の内装に仕上げてくれました。

会社の方は創業23年目を迎えました。
やめたい、と思ったことは数知れず。
特にこの4年間は「何のために会社をするのか」ではなく、
「なぜ会社をやめる決心ができないのか」と、だらだらと仕事を続ける自分を責め続け、
朝、「今日こそはスタッフに『会社を解散します』と言おう」と、それぞれに語り掛ける言葉まで決めたのに
出社直後から対応や処理に追われているうちに言うタイミングを逃して、、、という日々が数知れず。

なぜ会社をやめることができなかったのか、との答えは結局はっきりしなかったけど、
4年前は身体を引きずるように出社し、抜け殻のように仕事を続けていたけど、
でも会社の仕事がなくて、家に閉じこもっていたら、きっと私はアルコール依存症になっていたでしょう。
そこに私の「居場所」があったことは確か。
無言で私を支え続けてくれたスタッフがいたことは確か。

「こころのともしび」事業を本気で支えるためには、
家賃や光熱費などの経費を担う「会社」を続けることが必要だという答えがはっきり出たいま、
弱気や迷いを捨てて、新しい地で、新たな気持ちでスタートします。

 

2015年05月01日 19:30

自死遺族である自分と戦いながら書いた卒業論文

少し以前、小さな一歩のメンバーである大学生の自死遺族が「自死遺族の抱える困難」をテーマ
に卒業論文を書いたお話をブログに取りあげましたが、
先日、ご本人から論文を公表してよいと了承をいただいたので、あえて全文をpdf版でアップします。
全81pのうち、自死遺族2人のロングインタビューを丁寧に再現した3~4章、その結果に本人が考察した5章が40pという力作です。
(3章 米山34~49p、4章 佃祐世弁護士50~66p、5章 考察67~75p)

全文PDFはこちらから
改めて読ませてもらって、自分が語る以上に、自分の想いが生のまま再現されていて、
(雑な言葉づかいまでそのままです)、自分は他人に、こんなふうに語ったのか、と驚くほどです。
(が、確かに言ったことです)

わが娘も2年前に自死をテーマに卒論を書きました。
そのときも、「あとがき」をブログに乗せたので、今回も一部を紹介させてもらいます。

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おわりに

 

 本研究は、自死遺族の現状を明らかにし、死の受容のあり方について整理し、自死遺族支援の在り方や自死遺族会の役割を分析する、といったことが目的であった。しかし、研究動機は、父が自死して自分が自死遺族になったため、という甚だ私的なものである。

 

今振り返ってみると、父の死後、普通の大学生活を送って元気に生活しているつもりでも、当時の私には、大きな負担がかかっていたのだと思う。私は、自死遺族当事者だけれど、この人は自死遺族だ、支援が必要だ、かわいそうな人だ、などと思われたくなかった。弱い自分を見せたくなかったのである。そのため、学校では何事もなかったように振る舞い続けたし、実家や親戚内では、いつでもしっかりしている娘としての役割を果たそうと必死だった。父の葬儀のとき、親族代表挨拶を述べたのは私である。毅然とした自分、動揺を示さない自分を必死に振る舞っていた。当時は、意識してそう振る舞わないと、自分を保てなかったのかもしれない。

この研究をしたいとおぼろげながらにも思い始めたのは、父の死後4か月ほど経過した頃だったように思う。だが、このような私的動機で研究をするのは不純かもしれない、と考えてもいた。ある人に相談した際、私は思ってもみない返答が返ってきた。「不純で構わないと思いますよ。多くの人が不純な動機に秩序を乱されて生きづらいから研究をするのだと思います。その生きづらさがある程度共感を得られる問題で、その解決策に考えさせるところがあれば、それが素晴らしい研究になるのだと思います」と言って、「だから、不純などと言わずに、向き合える限り向き合ってください」と応援していただいた。私は、その言葉に非常に勇気づけられ、このテーマで研究してもいいのかな、と思えるようになっていった。

しかしながら、研究するということは、同時に自分との戦いでもあった。先行文献を読む度に、自分のふがいなさややるせなさを認識したり、自死遺族の手記を読む度に涙を流したりした。自死遺族関係者に会うたびに、父のことを思い出していた時期もあった。私が自死遺族であることを知らない人から、「なんでそんなに重いテーマを選んだの?」、と言われ、答えをはぐらかしたことも1度や2度ではない。

 もちろん研究は、自分が当事者であることを認識しながら、第三者的視線を持つことも大切であった。私は、自分が客観的な視点を持ちながら研究ができるのか、という点は、常に意識していたことであった。自死に関して私は一般人とは異なる感覚を持っている。自死遺族が自死遺族研究をすることに関して、自死遺族からは、「自死遺族しか書けない研究ってあると思うのよ」、「先行文献を読んでいても、当事者だから気づく違和感とか、あると思うんですよ。それを大事にしてもらえたら」、などと温かい言葉をいただいた。こういった言葉は、研究を継続するうえで本当に励みとなった。

このように振り返ってみると、私を支えたのは、自死遺族会で実際の自死遺族と交流するということが大きかったように思う。1人でいると無性に悲しくなったり、やるせなさが沸いてきたりもするが、自死遺族会で遺族に会う度に、自死遺族当事者からの生の声、悲しみの深さ、止まない自責の念などを肌で感じ、それによって研究への意欲を新たにしていた。私にとって自死遺族会は、同じ悲しみを共有できる仲間に会いに行く場所でもあり、勇気をもらう場所でもあった。

(中略)

さて、自死遺族研究をして何か自分の気持ちや父への思いが変わったか、と問うてみると、実はまだはっきりとした答えを持ち合わせていないように思う。ただ1つ言えるとすれば、自死遺族会への参加を通して、父が自死し、自分が自死遺族であることを公表することへの抵抗は、徐々に徐々に薄れてきたということだ。だからと言って、むやみに公表するわけでもないが、「自死を語れる死にしたい」という思いを持つ筆者にとっては、1つの前進だと考えている。

また、新しい生き方を見つけて活躍している自死遺族の方々と知り合えたことで、自分が今後どのようにして生きていくのがよいか、自分の将来を思い描いたときに、その選択肢となりうるようなモデルができたことは、今後の自分に生きてくると思う。


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ご本人、これからも大学院で研究を続けながら「小さな一歩」の分かち合いもお手伝いしてもらえるとのこと。

私と違い、これから、長い将来の人生の道を歩んでいく。
色々な迷いも挫折も経験するかもしれません。
つまづきそうなとき、亡きお父さんが、道先を照らしてくれることを祈ります。

2015年04月22日 19:10