中国新聞(9月9日)で「こころのともしび」が紹介されました
朝から、問い合わせや訪問依頼の電話がたくさん寄せられました。
反響の大きさに驚くとともに、
人に話せないことで深く悩んでいる方がこんなにたくさんいることに改めて驚いています。
これからが、本当に気をひきしめるときだと思っています。
「心のともしび」を求めてここに来られた方が、小さくても、心に灯りをともして帰っていけるよう、
スタッフとともに、心をつくして頑張っていこうと思います。
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広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」
自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い
活動の主旨と主な内容 ≫ ブログ ≫
ひきこもり、不登校、自殺未遂・・・社会の人間関係に傷つき、心を閉ざした若者たちの多くが、悩みや苦しみを誰にも打ち明けられず、孤独の中で暮らしている。そうした若者たちを救うため、谷口は“アウトリーチ”と呼ばれる訪問支援を行う。若者たちのもとに、こちらから出向き、直接支援する手法だ。谷口は、このアウトリーチの達人と言われる。
「ひきこもりや不登校、そして非行など、若者たちが抱える課題は、社会から孤立することによって深刻化しやすくなります。そうした若者が自分から相談施設に足を運ぶことは難しく、彼らが自立に向けたきっかけを得るには、アウトリーチが必要なんです。」
だがアウトリーチは、極めて高い援助技術を要し、熟練の支援者でも取り組むことが難しい。心を閉ざした若者との直接接触はリスクが高く、彼らをさらに追いつめ、状況を悪化させる恐れもあるからだ。しかも、谷口への相談のほとんどは、複数の支援機関がすでに本人との信頼関係の構築に失敗し、対応できなかったケース。そのため本人の、支援者に対する不信感や拒否感が強い場合が多い。最大の難関は、最初のアプローチだと谷口は語る。
谷口さんが大切にしている「仕事の流儀」とは、「価値観のチャンネルを合わせること」。
対峙する子どもは、何が好きで何を大切にしているのか。
子ども自身の『価値観』に神経を研ぎ澄ませ、まず好きなことに徹底的に付き合います。
そこから心をほぐし、深い心の痛みの入り口を開けるのです。
色々な引き出しを持っていないとできないこと。知識や資格があってもそれだけではできないこと。
「お話、聞きますよ、好きなことから話していいよ」という姿勢ではできないこと。
NPOには臨床心理士や社会福祉士などのスペシャリストスタッフが多く、
また、佐賀県や佐賀市などの協力を仰ぎ、教育、保健、福祉、医療、矯正保護、雇用などに関係する組織が一丸となって支援を行う体制ができていることも圧巻です。
「アウトリーチ」は、今必要性が叫ばれながら、なかなか実現しない。
どうしても人間は、自分が今いる「枠組み」に守られながら(自分の安心を確保しながら)
人に手を差し伸べようとする。
そこには、「あなたを助けてあげるから、ここに来なさい」という姿勢がぬぐえない。
それでは、本当に助けを求めている手を「差し伸べる手」にならない。
自分自身も、自分の生活も大事だし、、、、リスクもあるし、、、何かあったら責任が、、
そんなことを考えていたらできない。
一方で、谷口さんが体を張ってできるのは、行政を始め、多くの機関が連携し、協働してこそでもあります。
NPO法人や個人が単体でリスクを背負ってできることではありません。
その意味では、佐賀県、佐賀市の「本気度合」も伝わってきます。
谷口さんの仕事を見て、自分の向き合い方の甘さに
頭をガツンと殴られた気がしました。
「こころのともしび」には、こころに苦しみを持った本人だけでなく、
子どもがうつなどの「気分障害」を抱えている母親の相談者も多く訪れます。
始めの相談は、「子どものことで、、、」と切り出される方も、お話を聞いているうちに、
まず、親である相談者の、行き詰まり感や焦りを「緩めてあげないといけない」と思われて、
「子どもさんが相談に来られる前に、まずお母さんが来てお話をしてみませんか」と呼びかけます。
ほとんどの方が、自分自身が行き詰まり、考えがもつれ、視野がせまくなっているからです。
当事者を支える、一番身近な人の心を緩やかにし、視野を広げ、たまったガスを抜くことも傾聴の役割だと思うのです。
そして相談に来られると、
「子どもの『心の病』がよくない、どうしてあげらたらいいんだろう」
「自分は何をしたらいいんだろう」
「とても心配しているのに本人が自分に相談してくれない」
「夫が自分の心配する気持ちを正面から受け止めてくれない」
そんな、母親としての辛さ、苦しさを打ち明ける人が少なくありません。
お話を聞いていると、親、という存在のもどかしさや限界に、私自身も一緒に辛くなってしまいます。
少し前に、うつを経験したある人が
「子どもの立場からすると、親には心配をかけたくない、のが自然の気持ち。親を苦しめていると思うと、倍、自分も辛くなる。
親はむしろ『何とかなるよ』くらいの鷹揚な気持ちでいてほしい」と話してくれて
そうなんだ、、、、でも、それは難しい、と思ったことがありました。
なぜなら、親の仕事は「子どもを心配する」ことだから。
一方で、子どもの頃から「親が自分のことを心配してくれなかった、自分に関心を持ってくれなかった」と、
それが大人になった今も病根のように残り、そのことが根本原因となって、対人関係がうまく運べない、と
悩みを相談しに来る人もいます。
親子って、本当に一番近くて、一番重い。
色々なお話を聞きながら、ふと思うのです。
「もし、自分が娘のうつに向き合うにあたってこういう場所があったら、心をゆるやかに広くして、娘と向き合うことができただろうか、
その結果、いのちを救うことができただろうか、」と。
その答えは出ることがありませんが。
先日、某メディア担当者から、いきなり電話がありました。
「小さな一歩の活動をホームページで見てお電話しました。
今、取材テーマが、「家庭の貧困と子どもの自死の関係」で。
貧困家庭って、親が生活に大変で、子どもに目が届かないから、子どもが悩みを話せず、自死しやすい、っていうことが一部で実証されているのですが、小さな一歩さんにはそういう遺族の人はいますか?」
「うちの分かち合いには、子どもさんを亡くされた遺族はたくさん来られますが、みなさん、悲しみや、亡くした子どもへの愛をお話しになるので、そういう方は知らないですが、、、、」
「そうですよね、分かち合いって時間とお金に余裕がある人が来るから、貧困家庭の人は来ませんよね。
もしそういう人がいたら取材したいと思ったんですけど。
どなたか紹介してもらえないでしょうか?」
「・・・・紹介できる人はちょっと。。。」
「ああ、わかりました。。。すいません」
多少、前後に他のやりとりもありましたが、この短いやり取りの中に、自死や自死遺族に対するどれだけの偏見が、こともなげに語られていることでしょう。
「貧困家庭では親が子どもに気を配る余裕がないから子どもが孤独」
「親に愛されていないから子どもの自死念慮が高まる」
「分かち合いに来るのは、暇とお金が余っている人」
分かち合いに参加する方々が、サロンのように着飾って、暇つぶしをしに来ている、とでも思ったでしょうか。
遺族に録音機をつきつけて、何を聞くつもりだったでしょうか。
ホームページを見た、と聞きましたが、私が子どもを亡くした自死遺族の1人であることを、この担当者は少しでも考えたでしょうか。
私自身が傷つくかもしれない、と一瞬でも考えた上での発言でしょうか。
逆に、このメディアが子どもの自死について、どのようにまとめるか、見てみたいと思いました。
今日も、夏休み明けに子どもの自死が集中していることについての有識者の論評はいかにもわかっていない、というものでした。
いつまで、自死や自死遺族に対する偏見がなくならないのか、つくづく考えさせられました。
ある晩、知り合いの人から相談の電話が入った。友人(Aさん)の家族(Bさん)の自死願望が高く、悩んでいるという。
精神疾患はなく、病院にもかかっていないと聞いて
「よくわからないけど、不安がおありのようだからとりあえずお話を聞いてみましょうか」
とAさんの元に行く。
話は予想をはるかに上回る緊急性の高いものだった。
2日前に遺書を残して失踪し、発見された場所では、睡眠薬を大量に飲んでふらふら状態。
救急車を呼んだが、何とか意識がある状態でBさんが拒否したため、「本人が拒否しているので搬送できない」と救急車は帰ってしまったそうだ。
相談を受けた夜は家にいるBさんに対する恐怖と混乱を抱えながらAさんは帰宅した。
その晩、Bさんの不安定な状態は続き、家財を破壊したり、大声を出したり、卒倒して転落するなど、
本人だけでなく家族に危害が及ぶ危険が高まり、おびえるAさん。
警察を呼んだら「まだ被害が発生していないから」家族内のもめごと、と民事不介入で帰ってしまったそうだ。
「精神科救急を呼んだらどうでしょう」とアドバイスした。
Aさんが電話すると「まあ、落ち着いたら本人を連れて診察に来てください」とだけ回答されたそうだ。
次の朝、Aさんから電話がかかった。
「錯乱して大声を出していて、怖いんです。またたくさん薬を飲んだみたい」
「救急車は呼びましたか?」
「来ましたが、本人と話して『しっかり答えているし、拒否しているので』と帰ってしまいました」
とりもなおさず、Aさん宅に行く。
家の外でAさんと話しているうちにBさんが家から出てきた。震えが来た。しかしその場で卒倒して倒れる。
「救急車をもう一度呼んで!」
「でもさっき帰ってしまったばかりだし」
「でももう一度お願いしてみましょう!この状態だと拒否もできないでしょう」
Aさんが119番通報。混乱しているAさんに代わって状況を説明する。
救急車が着いた頃、Bさんはやや意識を取り戻し、会話ができるようになる。また、乗車を拒否。
救急隊「眠たいだけなの?どれだけ薬を飲んだの?」
Bさん「。。。。」(絶対ありえないほどのわずかな量だけを言う)
救急隊「(気が抜けたように)立てますか?部屋まで支えていこうか?」とBさんを家に送って、そのまま帰ろうとする。恐怖が顔に広がるAさん。
「待ってください!この人は!」と3日間のいきさつ、家族に危害が及ぶ危険があることを必死で説明する。
ここで、救急隊の若い隊員の表情が変わった。
部屋の中を捜査し、そこに大量に残っていた睡眠薬を回収。
「自傷他害の危険が高く、家族からの要望が高い場合は、本人が拒否しても搬送できます。」
「今から、僕が精神病院に緊急受け入れ要請をかけます。」
とBさんを家の中に返そうとしていた他の隊員を押しとどめ、小声で指示。
Bさんを興奮させないように、拒否させないように、上手に説得し、誘導して救急車に乗せた。
Aさんも救急車に同乗したのを見届て、自分はそこを離れた。
この処理があるまで、消防も警察も病院も、冷血な対応に、BさんもAさんも見殺しになると思っていた。
しかし、この若い救急隊員の判断、Bさんを説得して搬送するまでの見事なわざは、「神」だと思った。
結局Bさんは精神病院に搬送され、長期入院の必要があると診断された。
その病院は、その前にAさんが門前払いをうけた、精神救急がある病院だった。
それにしてもAさんはなぜ、その日の朝、私が必死に食い下がったような訴えを、はじめに到着した消防隊員にしなかったのか?
それは、「家族」だからではないだろうか。
家族は、緊急の危機(自分自身の身の危険も含め)におびえ、動転し、必要なことさえ語ることもできなくなるのではないだろうか。
精神病院に隔離される結果を導いたことが、正しいかどうかは私にはわからない。
ただ、その時はAさん、Bさん、その家族。守るべき命は希死念慮者だけでなかった、ということだ。
希死念慮者に対峙することがきれいごとではすまされない、ということを体の震えと共に身に刻み込んだ。
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