広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」

自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い

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ブログ風 日々のつれづれ

何でも、始めは小さな一歩だよね

先日、うれしいことがありました。

以前から週に1回訪問している、心因性難病を持つAさんとお話しをしていました。

Aさんは一人暮らしで、外出ができず、頼りになる身内もいないため、
いつも孤独と「1人の時に何かあったらどうしよう」という不安を抱えて暮らしています。

特に、祝日で、いつもなら訪問するヘルパーや訪問看護師が来ない日、
誰も自分のそばにいない、という不安と寂しさがとても強くなる、ということです。

でも、心的障害が原因で「車に乗ると恐怖感の発作が起きる」と言われていました。
そのため車を利用した遠出の外出ができない、
だから「人に会うための外出も無理」と言われていました。
私が「車で送迎しますよ、車に乗れる練習につきあいますよ」と言っても、首を縦に振りませんでした。

先日、私は、「こころのシェルター」の計画の話をしました。

「Aさんのように、1人で過ごす孤独や心細さが強い人こそ、この場にお連れしたいのですよ。
そこに来られたら、色々な人と、無理なく自然に話かけたり話しかけられたり。
皆で、温かい食事を囲んだり、疲れたらお昼寝をしたり。
そんな風に、『家庭の茶の間』にいるように自然に人と触れ合うことができるのですよ。
「こころのシェルター」について考えるとき、いつも貴方のことが頭に浮かぶのですよ。
でも、それは車に乗れるようになったらね。
無理ではなくね、少しずつ近距離から。だんだんと距離や時間を増やしていって、平気になったらね。

今は無理でもね、『少しでも練習してみようか』と思ったら、いつでも一緒に練習しますよ」

Aさんが、ふっと言いました。
「今日はどこに車を停めているんですか?」
「え、近くのスーパーの駐車場だけど」
「今から練習してもいいですか?」
「ええ、もちろん!!」

雨の夜でしたが、急きょ、初めての練習になりました。
5分間くらい、Aさんの家を出て近所の道を車で走りました。

「気分はどうですか?」
「今までは、緊張して、乗った途端、動悸が激しくなったり頭が痛くなったけど、
今日は短時間だとわかっているから大丈夫です」
「それはよかった。少しずつ、距離を伸ばしていけるといいね」


Aさんを家に送ってから家路につきながら
「小さな一歩だよね、これも」と1人でうれしくなりました。


 

2015年02月18日 16:39

「自殺未遂者ケア研修」

某日、某「自殺未遂者ケア研修」に出席しました。
主に医療機関従事者を対象としたセミナーだったようです。

昨年広島県が行った「自殺未遂関係者研修」でもそうでしたが、自殺未遂者に直接携わる医療現場の人が少数で、自治体の保健福祉担当者が多い構成でした。

午前中は講義、午後からワークショップ。
3つの事例について各グループで話し合う形式。
1つ目は「仕事に行き詰ってうつ病を発症し、自宅で縊死を図った50代男性。精神科の受診を拒み、退院を迫るケース」
2つ目は「精神的に不安定な20代の女性が恋人と不仲になって過量服用で自殺を図り、病院でも勝手な言動で医者や看護師を困らせるケース」
3つ目は「統合失調症の20代男性。病院に搬送されて暴れているケース」

「手こずる患者への、トラブルにならない対処を学ぶ」学習、と見えました。

事例を見たときからいやな予感がしていたけど、
グループワークをしながらどんどん頭が痛くなってきました。
その事例が娘と一部一致していたからではなく、

そのケースに対して、医療機関側の人たちによって交わされる言葉の端々にある、
「もともと性格や生き方に問題あり」「家族ももてあましている」「アピール行為(注目されたい からしている)」「依存性と操作性(人を自分の思い通りに操作しようとする病的傾向」
などの言葉の一つ一つが、ぐさぐさと胸を刺しました。

怒り、とは違う。「ああ、医療の側の目線はこうなんだ、これが彼らにとっての『正しい知見』というものなんだ」という悲しさや虚しさが胸を覆いました。

娘の死の1年後にカルテの開示を求めに行ったとき、そのときの担当医に言われた
「娘さんは、構ってほしくて狂言自殺をしたんだ、半ば覚醒していたのに意識のないふりをしていて、同情を引こうとしたんだ」
という言葉がこだましました。

私のように、自死遺族がいることをシナリオ上予想していなかったのでしょう。
 

私は精一杯
「この女性は病気ではない。精
神科での投薬やカンファレンスを目的としたカウンセリングより、
ここまで追いつめられた経緯や生きづらさをゆっくり聞いてあげる傾聴が大切だ。」
とグループ内で意見を言いましたが、各グループ発表で同じような意見は出ませんでした。

司会者がこの女性のケースを、「精神疾患というより人格障害」と認めながら
「この人を『精神病院に送るべきか』、論じるまでもないですよね(笑)」。時間が押していたから。

また、50代の男性のケースでは
「わりと男性って、救急には来なくて、直接警察に行くことが多いですけどね」
(つまり未遂が少なく、完遂することが多いということ)と、司会者がさらっと言っていました。

講習会で配られた資料には
「来院した自殺未遂者のケアQ&A」「自殺未遂患者への対応」2つのマニュアルがあり、
立派な建前が書かれていました。

研修の最後に「自死遺族への対応」について15分くらい講義がありました。
急に、敬語を駆使した、丁寧な口調になりました。

そらぞらしいとしか感じられませんでした。

2015年02月15日 17:40

訴えることができない者の悲しさは

3月9日に広島弁護士会主催のシンポジウムが開催されます。
テーマは「自死遺族の直面する問題と考える」。副題は「弁護士やこころの専門家にできること」。

(詳細は⇒「関係団体の開催情報」http://chiisanaippo.com/infomation.html

これに先立ち、今週の金曜日に1時間ほど、自死遺族の立場で弁護士会の勉強会で話をすることになりました。

何を話そうか、と悩みます。

法律の“専門家”やこころの“専門家”、精神科の“専門家”、行政の“専門家”。。。
“専門家”とは「専門の資格や職業的な立場を持つ人」で、専門的な助言や手助けをしてくれる人、と考えます。


私は娘の自死のあとで、専門家の支援をいただいたことがありません。

法的な手続きを求めたこともありません。
娘の死に関して、法的に誰かを訴えたり真実の究明につながることはありませんでした。
個人的には発狂するほどありましたが、それを突き詰めると犯罪を犯しそうでしたから。

精神科医にも行きませんでした。

娘が死の前2ヶ月間に、精神薬の副作用で体が消耗し、ふらふらになりながら
「でもこれは元気になるために必要だから」と薬を続け、
最後には、その薬の多剤服用で未遂を図り、その後、精神的に錯乱し、投身して死んだから。
恐ろしくて向精神薬など飲む気になりませんでした。

「うつ病チェック項目」は全てあてはまっていたけど、
「娘が自死して、うつにならない人なんかいるもんか。チェックもなにもあるもんか」思っていました。

行政の窓口に相談にも行きませんでした。
私の望みは1つだけ、絶対にかなわないものだけ。相談しても解決しないもの。

2011年は自死者が3万人を超えていて、国をあげて自死防止への取り組みが活発化していました。
その中で、失業や借金を苦にした死、過労自死など「自殺は社会的に追い込まれた末の死」というスローガン(?)が上がりました。

また、3月の東日本大震災の爪痕が大きく、テレビや新聞では多くの家族を亡くし、
家や財産も失った方の悲嘆の姿が毎日のように報道されました。

そんな世相の中で、
私は肩身が狭い思いをしていました。

「社会的に追い込まれた末」でない娘の自死は、なんだというのだろう。
東日本大震災の犠牲者の方々の姿を見ると、「娘しか失っていない」自分、
自殺未遂を図った娘を見殺しにした自分は
誰かに訴えたり、助けを求めたりする価値がないのではないか。

「訴える価値のない人間」だという思いの中で、できるのは祈ることだけでした。

でも、娘が多剤服用で救急病院に搬送された夜から次の日の朝に起こったことは
消しても消しても消えない。

結局、自分で贖罪の道を探し、いまもその道を歩いています。

 

2015年02月10日 12:01

心の中に優しい人の存在を持つ

本日1月31日、広島いのちの電話主催の公開講演会
「人はなぜ死にたくなるのか、そして死ぬのか ~私たちはどう支援できるのか~」を聴きに行きました。
講師は、鑪幹八郎先生。日本を代表する心理学者、精神分析家、教育学博士であり、
私が学ぶ「広島カウンセリングスクール」の理事長でもあります。

「いのちの電話」スタッフの方向けに語られたので、電話口の場面を想定されていましたが、全てに通じる話でした。

ここに書く内容は、私自身が今日受けた教えを忘れないようにとどめておくためのものです。

○自分の心の中の支えがなくなる時、人は「死にたい」と思う。
  自分を支える大切な人を失くした時。
  自分の名誉を傷つけられ、屈辱や侮辱を感じた時。この「名誉」「屈辱」とは“外”にあるものでない、
  “内なる自分の中”にある。他人がきめられるものではない。
  不治の病で生きる希望を失ったとき。 
  精神疾患によるもの。特に自分の意思とは無縁に、「死ね」「飛び込め」といった
  内面の声に動かされたとき。

○心の中に「もう死ねと叫ぶ人」がいたらどうしようもなくなる。

○黙って自死する人もいるが、「死にたい」と声に出す人は、「助けて下さい」「生きたい、でもどうしていい
 かわからない」と訴えている。 (Cry for help) そういう人には「何がないのか」?心
 の中に、自分を支え、見守り、認めて「それでいいんだよ」と認めてくれる「やさしい人」がいない。
 「やさしい人」が心の中にいないと、帰る場所がなく、生きていくための「足元が定まらなくなる」。
 家族や友人がいても、心の中は一人ぼっちで空っぽ。雪の中で寒さにふるえ、小さく丸まってしまっている。

○怒りの感情が表に出る人もいる。表面では「怒り」だが、本当は「何で自分が一人ぼっちなんだ」
 「何で誰も助けてくれないんだ」と孤独の叫びをあげている。

○そのような人が求めているのは「やさしい声」だ。
 やさしい声で話を聴いてもらっているうちに、消えていたり、忘れていた「やさしくされた経験」が
 呼び起されてくる。
 元気な時には忘れていた、「大事な人」のことを思いだす。ろうそくの灯がともるように。

○でもまたしばらくたつと、その灯が消えてしまう。消えるとまた電話したくなる。
 たびたびCry for helpがかかるのはそのためだ。

○元々、心の中の「やさしい人」の影が希薄な人もいて、電話口の声を頼りに自分で
 これから作っていかなくてはいけない。
 そういう人に心のやさしさが取り戻されるのには十分な時間をかけることが必要だ。

○神棚や仏壇、位牌の前で亡き人と話すのも心の支えになる。大事な人のイメージが回復し、
 「やさしい声」が聞こえるからだ。

○教会で神様に話すのもよい。心の中の支えになる。自分との会話になっている。

○傾聴に必要なのはテクニックより真心だ。
 バレンタインデーのチョコレートに例えると、値段が高いほど喜ばれるのではない。
 100円のチョコレートでも真心がこもっていればうれしい。
 具体的に言うなら、電話口で「あなたが主役よ、私は脇役よ」という気持ちが伝わる聴き方をすることだ。

自死の原因は、色々な調査や研究の結果が発表されてきました。
「自死とは社会的に追い込まれた末の死」と定義されたこともありました。
が、これほど、私個人にとって“なぜ娘は死んだのか”、“死の淵にある人に必要なことは何か”
「腑に落ちた」話は初めてでした。

 

 

2015年01月31日 16:51

24日は亡娘の誕生日でした

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1月24日は亡娘が生きていたら29歳の誕生日でした。
家族だけで、教会の牧師先生にお願いし、追悼の祈りをささげた後、墓地に行きました。
娘に似合うような、かわいく清楚な、明るい花をささげました。

29歳。あと1年で30代になっていた。
どんな生活をしていたでしょう。

結婚して子どももいたかな。
仕事をしていたかな。
一緒に住んで、買い物に行ったりしていたかな。

私はどんな生活をしていたかな。
その日その日あったことを難しく考えるでもなく過ごして週末には映画やジムに行っていたかな。
娘とは相変わらず、喧嘩したり、心配したり、いらいらしたりして
夫に愚痴をこぼしたりしていたかな。

そんなふつうの生活をしていたかな。

3年前の誕生日に教会墓地に納骨をし、
「これからは天国で、神様に新たな命をもらって生き直すんだよ。」
神様にうんとかわいがってもらうんだよ」と言いました。

だから天国年齢では3歳です。

おだやかな小春日和でした。



2015年01月27日 20:58

「自立」とは、依存先を増やすこと

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フェイスブックで、発見した記事。
新生児仮死の後遺症によって脳性まひの障害を持ちながら小児科医となった熊谷さんへのインタビュー記事は、深く考えさせれるものです。

この中で、特に心に響いた言葉です。

「“自立”とはどういうことでしょうか?」

 一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、
 さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。
 東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。
 なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。
 そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。
 エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。
 5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。

 これが障害の本質だと思うんです。
 つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。
 健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。
 けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。
 依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。
“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。
 世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存していることを忘れているわけです。

 実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが“自立”といわれる状態なのだろうと思います。
 だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。
 障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく、依存先が集中している状態です。
 だから、障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることができると思います。
 今にして思えば、私の一人暮らし体験は、親からの自立ではなくて、親以外に依存先を開拓するためでしたね。

「TOKYO人権 第56号」インタビュー記事全文 ⇒
 http://www.tokyo-jinken.or.jp/jyoho/56/jyoho56_interview.htm

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このインタビュー記事を、精神の障がいで、在宅看護を受けている方に見せたところ

「私は、いつも『早く自立できるようにがんばりなさい』と言われて負担なんです。
彼らの言う『自立』とは『人に頼らずに生きていけるようになる』ことのように聞こえます。
でも違うんですね」

私「そうですね。色々な人に“依存”できる、依存の仕方を自分が選べるということなんですね。
  貴方と理解しあえる人と出会う機会が増えることもその1つだし、
  『不本意だけど、在宅でできることはこれしかないからがまんするしかない』
  から自分が望むサービスを受けられる選択肢が広がる、とか。」


自死遺族の抱える孤立感のこともこの言葉から考えさせられました。

多くの遺族が「いつまでも考えていないで前を向きなさい」とか「まだそのことにこだわっているの」とか『励まし』の言葉で傷つきます。
差別や偏見の言葉があったり、気持ちを理解しない人からの無神経な言葉などで、気持ちが
一層萎縮してしまうから、周りの誰にも自死のことを話すことができず、
孤独、孤立、閉塞感の中で過ごす遺族が多い。

自死遺族の苦しい心情が、広く偏見や色眼鏡なく受け入れられるようになれば
(こころの「頼り先」が広がれば)哀しい気持ちは変わらなくても、少なくても孤立感は和らぐのでは。

そんなことを考えさせられました。

2015年01月20日 10:51

現場で培われた助言は得難い

「こころのシェルター」サポートメンバーの方からの紹介で、
過去に、やはり、様々な苦しみを抱えている人にフリースペースを提供し、
食事を提供するボランティア活動をしていた2人の方とお話しをすることができた。

「フリースペース 木かげ」というグループだ。

9年間の活動中、本当に色々な人が来られ、様々な出来事が起きたとのこと。
「9年間は短かったですか、長かったですか?」と聞くと
「長い、短いで形容できない、『濃い時間』でした」との答え。
「充実していらした、ということですか?」
「充実、という綺麗な言葉ではなく、ただただ濃い時間でした。その時間で、私たち自身が学ばせたもらいました」と言われました。


「木かげ」に来られる人は、
過去の辛い経験がきっかけで心に不調をもつ人が多かったそうです。
また、家族に求めて、それが果たせなかった、
「素の自分、弱い自分、だめな自分の姿をさらけだせる」場所を求めてくる人が多かったそうです。
そんな人たちに、あるときは受入れて許しながら、
あるときは「ここはみんなが過ごす場所。あなたの思い通りにならないこともある」と叱責もしたそうです。

それこそ「お母さん」の姿ですね。

「これから始めるにあたって、色々な不安もあるのですが。。。」と
色々なケースを想定して、医療福祉や心理職などの専門職の助けを借りることを尋ねると

「専門家は必要ない。それより必要なことは。。。」と教えてもらったことは

1、覚悟(強い意志)を持って臨むこと
2、人間のやることには限界がある。最後はその人の幸せのために「祈り」の気持ちを持つこと。
3、スタッフ同士が本音をぶつけあうこと
4、苦しい人に向かい合う「苦しさ」をスタッフ同士が吐き出しあえること
5、心の病を持つ人だからと「特別扱い」「お客様扱い」をしないこと
  (自分が「いや」だと思うことをする人には、本音でNOを言うこと)
6、走りながら考えること(やりながら変えていくこと)

と教えて下さいました。

9年間、肌身で経験したことを持ち寄り、考えながら、話し合いながら改良を続けた方々の助言は大変ありがたかった。

こういう出会いに恵まれる私は幸せです。

 

2015年01月13日 17:51

ネガティブでいい

先月の自死遺族の分かち合いで
ある出席者が、「どうしたらネガティブな想いをポジティブに変えられるか、乗り越えた人から教えてほしい」
という問いかけがありました。

その問いかけに対して、1人の方が、
「ネガティブな想いが『いけない、何とか消さないといけない』と頭で思って、
発想の転換をしようしよう、と思っても、湧き出てくる想いを押さえつけることはできない。
むしろ、閉じ込めようとすればするほど、体の中で溜まって噴き出そうとする。
自分の中の矛盾が、体も心も悪くする。
『ネガティブな自分』も、そのまま、全て受け入れて、『そういう自分が自分なんだ』と
心の底から思えるようになったら楽になる。」
といったことを言われました。

精神科医でもカウンセラーでもありません。

家族の自死をきっかけに神経の病気で、何年間も引きこもりの生活を送った方です。
このことを、自分の中で納得するまでに、他人では想像できないほどの身体の痛みや
自己嫌悪や矛盾に苦しんだ方です。

身を削って経験してきた人だからこそ、の言葉の重みがあります。

私が決まってネガティブな想いに入ってしまうのは、娘が遺した愛犬と夜の散歩をしている時。
暗い夜道を犬と歩いていると、娘が身を投げた10分間のことがフラッシュバックします。
その都度、自分を責める想いが洪水のようにあふれてきてしまう。
さびしくて寒い、川べりの道を歩いていると、このまま歩き続けていると娘のいる場所に
たどりつけるのでは、と思ってしまう。

消せない想いではあるけど、消さないから、いまの「小さな一歩」の活動が始まり、いまがある。

「ネガティブな想いも大切な自分のこころの一部」。
まるで持病とうまくつきあって生きていくように。


だから、というわけではないのですが、
ネガティブな自分を否定せず、受け止め、つきあっていく方法を昨年、大阪で体験しました。

そのセミナー講師を広島におよびし、同じ内容で講義をしてもらうことにしました。

「ネガティブ思考をやめて、ポジティブ思考に転換させなくちゃだめだ」と
言われて悩んでいる方にお勧めしたいと思います。

セミナーのご案内は「勉強会、研修会の開催」に載せています。



2015年01月08日 19:26

映画「わたしたちに許された特別な時間の終わり」

昨年末から、広島の横川シネマで公開されている「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を12月28日に観に行き、太田監督ともお話しをすることができました。

映画の紹介は http://watayuru.com/

映画を観終わった直後の感想は一言、「心にささる」。

27歳で自死した増田さんは太田監督の高校時代の先輩でした。
高校時代に、全国ミュージックコンテストで賞を獲得し、
プロミュージシャンの道を歩もうとする増田さんでしたが、
その道は彼自身の心の病もあって、彼の理想とは大きく離れたものでした。

増田さんの歩んだ道については http://watayuru.com/sota_masuda/

増田さんから持ちかけがあり、彼の生き様をドキュメンタリー映画にするために、
増田さんと音楽パートナーの冨永さんの音楽活動と日常をカメラで追い続ける太田さん。
そのフィルムは100本にものぼります。

彼の音楽が受けいれられない客席、仲間同士のけんか、葛藤と自己嫌悪や暴言を口走る増田さんの姿。。。
時には周囲の人間さえついていけない、増田さんの心の混乱。
カメラは容赦なく「そこにある事実」を記録し続けます。
唯一のパートナー、冨永さんも、そして太田監督自身も、一片の容赦もなく、人間の弱さや脆さ、おろかさをさらけ出す姿が心にささってきました。

100本の映像は編集次第では、違う構成にもできたはず。
「なぜ、こんなにしてまで本人も当事者も追い詰めるのだろう」と思わせられます。

これは私個人の推測ですが、
岡田監督は、増田さんの自死に「許せない」思いを強く持っているのだと思います。
哀しい、寂しい、救えなかった自分への自責感とはまた違う、怒りの感情です。
増田さんにも、自分や周りの友人たちにも、増田さんを苦しめた病気や向精神薬にも、社会にも。

だから、一切の美化をせず、そこで起きたことをそのままの形で伝えているのではないかと思います。
映画冒頭、やや違和感のある映像がありますが、映画の最後でその思いが伝わります。
彼の死後に、映画を完成させるために苦しむ太田さんの姿も画面に現れます。

映画を観ながら、もし自分が増田さんの親の立場で、娘の生前の映像記録が残されていたら、
故人を貶めるかもしれない、こんなにきびしい映像を公表できるだろうか、、、、
いやできない、と思うと胸が苦しくなりました。

「私はどうしても、やさしかった娘、元気だった娘の姿だけを思い出そうとする。
病んでいった姿をつぶさに再現しても目を向けることなどできない」と思いました。

それだけに、増田さんの死後、この映画を「認め」、画面にも登場するご両親の勇気に感銘を覚えました。
100本のフィルムを両親に渡そうとしたら「自分たちではとても見られないから、映画に仕上げて」と頼まれたそうです。
特に「音楽への挫折や自己嫌悪に苦しむ増田さんの姿を撮り続けたことが、彼を死に追いやったのではないか」
という太田さんの葛藤を、明確に否定するお父さんの言葉には尊敬を感じました。

増田さんの遺書は、両親や友人への思いやりとやさしさでつづられていました。

「映画を完成させてね。できればハッピーエンドで。」

エンディングでそれが少しわかります。

自死遺族にとっては辛さの伴う映画だと思います。でも観てほしい。


 

2015年01月03日 19:01

シェルター具体化にむけて一歩前進

「こころのシェルター」計画の中で大きなテーマは場所探しでした。

今年の後半から、色々な賃貸物件を探し、見に行きながら、その間考え、悩むのは
その場所にした場合、自分が「ここでシェルター活動をしながら、仕事と両立できるか」。

本当は、景色のよい田舎の広い一軒家で、空間的にものびのびといやせる場所が理想的です。
しかしそうなると、シェルターの活動と仕事の両立はむずかしくなる。

今の会社をやめて、シェルターの活動に専念することも真剣に考えました。

「こころのシェルター」は、前例のない、自分でも経験のないことをしようというのですから、
ボランティアスタッフに任せて、とは思えない。自分自身がそこにいつもいて、責任を持って力を注ぎたい。

しかし一方で、息の長い活動にするためには、現実問題として、お金の問題は真剣です。
開始して何年間かは、補助金や寄付金が期待できず、自前の資金でやりくりをする覚悟ですから、抑えられる出費は極力抑えなくてはいけない。

そのためには、会社も続けつつ、「小さな一歩」の事務局が自分の会社に同居していて、
家賃や事務経費、維持費がかからない、今の状態を維持させていこう、と決心しました。

会社の事務所と同居となると、ある程度便利でないと、会社の業務の方がたいへんです。

今まで、仕事をしながら小さな一歩の活動を続けてきた私。
活動のために仕事を社員に任せて、会社を留守にすることも少なくなかったのですが、
理解してくれて無言でささえてきてくれた社員にこれ以上の負担を強いることはできない。

悩みながら探しつづけ、広島市西区の比較的便利な住宅街のビルの1階に
ここなら会社の事務所とシェルターが
「入口も全く別で、一見全く別の事務所」という形をとりながらうまく同じフロアをシェアできる、という場所を見つけました。

シェルターのサポーターの方々には計画地を説明し、経緯や、自分の考えを話してほぼ了解してもらっていたのですが、
気がかりは会社のスタッフがこの構想を理解してくれるか、でした。

何と言っても、「比較的便利」とはいえ、今の事務所(広島市のオフィス街のどまん中)に比べると、通勤も客先へ行くのにもかなり不便になります。

今日は会社の年内最後の日。忘年会の席で、話しました。

予想外にスタッフは歓迎してくれました。

私が「こころのシェルター」の構想を持っている、ということは、今年6月のシンポジウムに来てくれたので知っていたスタッフたち。
口にはしないけど、「そうなったら会社はどうなるんだろう」と不安に思っていたこと、
今日、話してみて、「どこか遠くに行ってしまうわけではない」と思ってほっとしたことが
改めてわかったのです。

新天地について、みんなで楽しそうに談笑し、食事をしながら、
「ああ、これでつながった。これでまた一歩前に行ける」と安どした私です。

理想の姿にはまだまだ遠い。
できること、満足してもらえるレベルもまだ低いかもしれないけど、
「まず、始めてみよう。続けることで本来の理想の姿に少しずつでも近づけていこう」と思います。



2014年12月26日 19:10