広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」

自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い

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ブログ風 日々のつれづれ

命の危機が迫る現場

ある晩、知り合いの人から相談の電話が入った。友人(Aさん)の家族(Bさん)の自死願望が高く、悩んでいるという。
精神疾患はなく、病院にもかかっていないと聞いて
「よくわからないけど、不安がおありのようだからとりあえずお話を聞いてみましょうか」
とAさんの元に行く。

話は予想をはるかに上回る緊急性の高いものだった。

2日前に遺書を残して失踪し、発見された場所では、睡眠薬を大量に飲んでふらふら状態。
救急車を呼んだが、何とか意識がある状態でBさんが拒否したため、「本人が拒否しているので搬送できない」と救急車は帰ってしまったそうだ。
相談を受けた夜は家にいるBさんに対する恐怖と混乱を抱えながらAさんは帰宅した。

その晩、Bさんの不安定な状態は続き、家財を破壊したり、大声を出したり、卒倒して転落するなど、
本人だけでなく家族に危害が及ぶ危険が高まり、おびえるAさん。

警察を呼んだら「まだ被害が発生していないから」家族内のもめごと、と民事不介入で帰ってしまったそうだ。
「精神科救急を呼んだらどうでしょう」とアドバイスした。
Aさんが電話すると「まあ、落ち着いたら本人を連れて診察に来てください」とだけ回答されたそうだ。

次の朝、Aさんから電話がかかった。
「錯乱して大声を出していて、怖いんです。またたくさん薬を飲んだみたい」
「救急車は呼びましたか?」
「来ましたが、本人と話して『しっかり答えているし、拒否しているので』と帰ってしまいました」

とりもなおさず、Aさん宅に行く。
家の外でAさんと話しているうちにBさんが家から出てきた。震えが来た。しかしその場で卒倒して倒れる。
「救急車をもう一度呼んで!」
「でもさっき帰ってしまったばかりだし」
「でももう一度お願いしてみましょう!この状態だと拒否もできないでしょう」

Aさんが119番通報。混乱しているAさんに代わって状況を説明する。

救急車が着いた頃、Bさんはやや意識を取り戻し、会話ができるようになる。また、乗車を拒否。
救急隊「眠たいだけなの?どれだけ薬を飲んだの?」
Bさん「。。。。」(絶対ありえないほどのわずかな量だけを言う)
救急隊「(気が抜けたように)立てますか?部屋まで支えていこうか?」とBさんを家に送って、そのまま帰ろうとする。恐怖が顔に広がるAさん。

「待ってください!この人は!」と3日間のいきさつ、家族に危害が及ぶ危険があることを必死で説明する。

ここで、救急隊の若い隊員の表情が変わった。
部屋の中を捜査し、そこに大量に残っていた睡眠薬を回収。
「自傷他害の危険が高く、家族からの要望が高い場合は、本人が拒否しても搬送できます。」
「今から、僕が精神病院に緊急受け入れ要請をかけます。」
とBさんを家の中に返そうとしていた他の隊員を押しとどめ、小声で指示。
Bさんを興奮させないように、拒否させないように、上手に説得し、誘導して救急車に乗せた。

Aさんも救急車に同乗したのを見届て、自分はそこを離れた。

この処理があるまで、消防も警察も病院も、冷血な対応に、BさんもAさんも見殺しになると思っていた。
しかし、この若い救急隊員の判断、Bさんを説得して搬送するまでの見事なわざは、「神」だと思った。

結局Bさんは精神病院に搬送され、長期入院の必要があると診断された。
その病院は、その前にAさんが門前払いをうけた、精神救急がある病院だった。

それにしてもAさんはなぜ、その日の朝、私が必死に食い下がったような訴えを、はじめに到着した消防隊員にしなかったのか?

それは、「家族」だからではないだろうか。
家族は、緊急の危機(自分自身の身の危険も含め)におびえ、動転し、必要なことさえ語ることもできなくなるのではないだろうか。

精神病院に隔離される結果を導いたことが、正しいかどうかは私にはわからない。

ただ、その時はAさん、Bさん、その家族。守るべき命は希死念慮者だけでなかった、ということだ。
希死念慮者に対峙することがきれいごとではすまされない、ということを体の震えと共に身に刻み込んだ。

 

2015年08月05日 19:45

自死を語れない事情

先日、「自死があったことを隠さないこと」について、ある遺族とお話しをしました。

その方は、自死は後ろめたいものでも、悪でもない、と心を強くし、あえて自死であることを公にしてきたのだそうです。

それは間違っていないと思いたいが、
家族に縁談があったとき、先の家の人に「自分の側の親戚には内緒にしてくれ」と言われたり、
部屋に写真を飾っていたら、その部屋に出入りする機会がある人々が、
「あの部屋は気味が悪いからあまり行きたくない」と言っていることを知り、傷ついたといいます。

私も、小さな一歩を始めるとき、自分の名前・顔、娘の名前・写真をすべて公にさらすことが
一番の心の負担だったし、
今でも、小さな一歩の活動を紹介されるたびに、繰り返しこれらが登場してくることで
亡くなった直後は、娘の死の理由を知らなかった人、死さえしらなかった人に娘の姿をさらしている。

毎日、朝夕の祈りの中で「娘が天国で私を見守り、応援してくれますように」と祈りますが、
娘が、死後も自分を世の中にさらしている、と私を責めているのではないか、と思います。

私自身はどうでもいいけれど、娘が死後も偏見で見られているのでは、と思うと、
娘の人生や、無念の想いを語り継いでいくために始めたこの活動がよかったのかどうか、と
いつも葛藤します。

家族が亡くなり、その原因が自死であることを明かせない、または亡くなったことさえ明かせない遺族は今も少なくありません。

その背景には「自死者がいる家は『気味が悪い』『縁起が悪い』」と、表向きはともかく
裏で言われている実際のこと、
また、そのような話を耳にして「影で言われ、遺された家族がさらに傷つくのでは」と恐れる気持ちがあるからです。

自分はどうか。正直、同じ思いを持っています。
家族に同じような話があったとき、正直に娘の自死を語る勇気がありません。


2015年07月27日 18:13

クリスチャン自死遺族の分かち合い「ナインの会」

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昨日7月21日、愛知県日進市で「第3回 ナインの会」が開催され、
クリスチャンの自死遺族11人が全国から集まり、分かち合いと慰霊礼拝を行いました。

分かち合いで、久しぶりにファシリテーターの役割でなく、一遺族として自分の想いに向き合いました。

病院のICUで看護師の制止を振り切って、牧師とともに讃美歌を歌った瞬間、
苦しみ、悲しみ、辛さを抱えて突然、自分の命を絶った娘の魂が天国で救われる思いがしたこと、
それがきっかけで教会に行くようになったけど、それでも自分にふりかかったことが納得できず、
「神様、私をこのように苦しめるために娘を召されたのか、
ならばなぜ私自身を傷めつけなかったのか、なぜ娘の死を与えたのか」と神様を恨んだ日々、
神様は私にどうしろ、どう生きろ、と言われたいのか、と考え続ける日々だったこと。

その葛藤と祈りの日々から「小さな一歩」を始めたこと。

それが正しい答えなのか、今もわからないけど、わかるまでこの道を歩むしかないこと。

その答えは私が天国に行き、もう一度娘と会えるときにわかること。

そんな思いを吐露しているうちに、久しぶりに素直に涙がこぼれました。

亡き人をしのぶ思い、自死遺族としての人生への向き合い方はさまざまで、
信仰を持っている人、持っていない人、キリスト教、仏教、神道、イスラム教、、、
何が正解ということはなく、それぞれが最も向かい合いやすい形を模索する道。

それが自死遺族として生きる道なのか、と、考えながら帰路につきました。

2015年07月21日 19:40

平成27年度 内閣府「自殺対策白書」に掲載されました

先日、インターネット上でも公開された「平成26年度 内閣府「自殺対策白書」の163P
「COLUMN16 遺族支援の取り組みについて」という題名で
「小さな一歩・ネットワークひろしま」の過去2年間あまりの活動が紹介されました。
数か月前に依頼があり、私が原稿を書いたものです。

PDF版はこちら
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2015/pdf/honbun/pdf/2-2-8.pdf

発表前の冊子が届いたので、他の頁も読んでみました。
第1章「自殺の現状」。自殺に関する統計をいろいろな角度でまとめたもの。
第2章「自殺対策の基本的な枠組みと実施状況」。国の自殺対策を列挙したもの。

大変な文字量なのですが、なんだろう、「こころ」が感じられない。
もちろん、現場で日夜がんばっている専門職や行政職の方の努力を否定しないのですが。

まあ、「白書」だから、、、、、

気になったのは「COLUMN11 相談窓口における取組【千葉県千葉市】」の取り組み
=千葉市こころと命の相談室」
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2015/pdf/honbun/pdf/2-2-6-2.pdf

[COMLUMN14 救急医療施設・警察・消防との連携の取り組みについて【大阪府堺市】」
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2015/pdf/honbun/pdf/2-2-7-2.pdf

でした。

両方の取り組みが、スキームは、自殺防止のためにとても大切で重要だと思うのですが、
投稿者自身が書いているように、稼働率が低い、利用者が少ないとか、
堺市の取り組みの場合、連携元である救急医療関係からの紹介がないとか、
活用されていないことが課題に挙がっています。

救急病院が紹介しない理由は「声掛けのタイミングがわからない」「未遂者の対応の仕方自体がわからない」とか。

「わからない」という言葉は、「わかろうとする努力をしていない」。
私見ですが、意欲そのものがないように思えます。

箱を作っても魂が入っていない。

私が自殺未遂者の再企図防止のための支援をしたい、と各方面に話をしに行ったときに
いつも感じてきたことが、今も変わらない。いつまでも、かもしれないと
情けない気持ちにさせられました。


2015年07月14日 18:15

心に抱いていたことはこのことだったかもしれない

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昨日(7月12日)、「こころのともしび」に来てくれたAさん。

かれこれ、1年間、週に1回、お話しをしにAさんのお宅に行っていました。

心因性の難病で、自宅から出られないAさん。
在宅福祉の「手」は届いているけど、「会話をする」相手や時間が極端に少なく、
このままの状態でいると、「言葉を出す」ことができなくのでは、と不安を抱えている。。
でも、難病が原因で、外出することも、初対面の人といきなり会話をすることも不安で一歩が踏み出せない。
でも、外に出て、「人と会いたい」「人と話したい」。

そう言い続けてきたAさん。

「少しずつ馴らして、恐怖感をなくして、同じ気持ちを分かち合える人と話せるといいね」
と言いながら、時を待っていました。

昨日は、「まず外出して初めての場所にたどり着き、そこで落ち着いて座っていられるまでやってみましょう」と迎えに行ってお連れしました。

他のスタッフもいましたが、無理に話しかけることはせず、20分くらいソファに黙って座っていたAさん。

帰りの車で、
「どうでしたか?」「ゆっくりできる雰囲気だったので緊張してパニックになることはなかったです」
「また来てみる?」「はい、大丈夫そう」とAさんの表情がほころびました。
「次は少しお話をしてみますか?」「はい、ぜひ」

「こころのともしび」がAさんにとっての、大きな小さな一歩になってくれることを祈ります。

ここで気づきました。「こころのともしび」を計画し、イメージしていた時に、
いつもAさんのことを思っていたことを。
誰よりも、Aさんに来てほしいと思っていたことを。

マザーテレサは言いました。
「100人を助けることはできなくても、1人ならできるでしょ。」

“助ける”なんておおげさなことはできないが、
いっぺんに100人に寄り添うことはできないが、1人への寄り添いが100回できるといい、とは思います。

 

2015年07月12日 13:20
【訂正】
広島テレビ「テレビ派」で本日予定されていた放映は、ニュース枠編成の関係で
月曜日に延期になりました。<(_ _)>
2015年07月03日 13:10

AERA7月6日号と広島テレビ「テレビ派」

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先日、AERAの取材を受けました。
「抗うつ薬に頼らない」という特集記事の中の【ルポ】20代女性はなぜ死を選んだのか」
⇒「特集記事2p全文はこちら⇒PDFファイル
という記事の取材です。


娘のことを話しました。
話の途中から小さな一歩の分かち合いに来られる方の話や「こころのともしび」の話になり、
うつ症状を持つ方が、向精神薬に対する不安を強く持っていること、
今度、「こころのともしび」でも、そういった向精神薬に不安を持つ方に対しては薬剤師が傾聴する日もあることを話したところ、
上のような記事にしてくださいました。

その掲載誌が届いた今日、広島テレビ「テレビ派」の取材を受けていました。
放映は明日4日、18時から「テレビ派3部」の中で3~4分、とのことです。

これらのメディアの方々の働きが、私たちと必要な方をつなげてくれるといいな、と思っています。
2015年07月02日 19:15

傾聴カウンセリング実践講座を終えて

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先週の土曜日(6月27日)に開催した「傾聴カウンセリング実践講座」は定員一杯の参加となり、
50人の方が熱心に聴講しました。
塩山先生のお話は分かりやすく、かつ、核心をついたポイントの強調や、
長年の研究や現場経験に基づくお話もあって、さすがの第一人者だな、と感銘いたしました。

「傾聴は話し手が主役、聞き手がいかに脇役に徹することができるか。」

基本はわかっていても、現場に立つとなぜうまくできないか。
個人的には、「沈黙が怖い」「何かいいアドバイスを持って帰ってもらいたいという
聞き手の自己満足」が大きな要因かな、と気づきました。

沈黙があると、焦ってしまう。何か話しかけなくては、話を続けなくては、と思いが巡ってしまい、
つい「質問」や自分の話をしてしまう。
聞き手が話し手の頭の中にない質問をしたり、聞き手側が自分の話をした時から、
聞き手の側に傾聴のハンドルが渡ってしまうのです。
ハンドルを一度奪ってしまうと、二度と聞き手の心の声は聞こえなくなる。

先生が、事例として、299回のカウンセリングでクライアントが一言も話さなかった、
300回目で「今日、一言も話さなかったら、その後のカウンセリングを断ろう」と思って臨んだところ、
300回目にクライアントが話し始めた、ということを言われた時、
「聴く」というのは「根気」だな、とつくづく感じました。

その2日前、私はカウンセリングスクールで、自分が行った試行カウンセリングの発表をしていました。
50分ずつ5回、試行カウンセリングをした後、5回目の録音音声を聞いてもらいながら
カウンセリングレポートを20人の同級生と先生の前で発表します。
カウンセリングをしている時は、「結構うまくいった」と自己満足していたのに、発表してみたら、散々でした。
カウンセラー役の自分の、クライアントに対する勝手な思い込みと筋書だてがあったこと
に気づき、恥ずかしく思いました。
塩山先生は、研究中にこれと同じことを200回以上されたと聞き、
5回程度で学んだ気になった自分が全然甘かったとさらに反省しました。

今度自分自身で塩山先生にカウンセリングをしていただくことになりました。
勉強のため、もあるけど、
私自身、プロの前で心の解き放ちをしたら、一体何が出てくるのだろう。
怖いような楽しみのような、そんな気持ちです。
2015年06月29日 20:07

たくさんの花と想いに包まれて