広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」

自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い

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ブログ風 日々のつれづれ

「人生の実力」というもの

「忙しい」=“こころを亡くす”とよく言われますが、
自分自身の心に向き合う時間もなく、目の前のことに追われていることがよくあります。

そんな中で先週土曜日には久しぶりに休みが取れたので、家の掃除を丁寧にしました。
娘の遺影と遺骨が置いてある棚を丁寧に拭き掃除をしながら、その時の自分の行いがよみがえり、
「いけなかったね、もっと違うことを考えて、行動していたらこうならなかったね」と娘に語りかけ、
久しぶりに1人で泣きました。

日曜日の午前中は毎週教会に行きます。
讃美歌を歌い、牧師先生の説教を聞くひとときは、慌ただしく過ぎる日々の時間から切り離され、
心の振り返りと解き放ちができる大切な時間です。

先週の礼拝説教でこんな話がありました。
「人生には3つの『さか』がある。上り坂、下り坂、そして“まさか”。
“まさか”に遭遇した時に、どのように行動するか、そこで『人生の実力』が試される。

「人生の実力」とは、知力とも財力とも体力とも違う。
困難に真正面から立ち向かい、戦い、解決、克服する力。これが1つ。

そして、もっと大切でもっと難しいのは
どのような困難な状況にあっても、それを受容し“これもわが人生、悪くない”と受容できる力。
どんな状況でも、その中で幸せを見つけていける力。
この力がないと、困難に遭遇した時「思い通りでなかった、もうだめだ、おしまいだ」と投げやりになり、逃げてしまう。

二番目の「受容する力」には経験が必要だというのです。

私にとって3年間の「小さな一歩」の活動は、自分に起きた“まさか”との戦いでした。自分なりに向き合ってきたと思う。

でも、受容することはできていないな、きっとできるとすれば、
人生の最後、もうすぐ天国で娘と会える日が近づいた時かもしれません。

 

2015年10月28日 19:01

抱えてきたものを捨ててみると空いた場所に希望が見える

今日はとてもうれしいことがありました。

何回かお話しを聞いてきた方。
自分に自信がなく、家族との関わり方がわからない。
どうしたらこんな自分をよりよい方向に向けたらいいかがわからず、
色々なことを試してみるが、どれも救いの決め手にならない。
途中で挫折し、そのことでもっと自分を責めてしまうことの繰り返し。

そんな話が繰り返されてきた前回の話で、服の片づけをしてみたら、
自分はどんな服を着てどんな生活をしたいと思っていたか、
ちょっと気付いた、と言われたので、それを大いに励まし、
「自分にとって何が大切か、何はいらないかのか。モノの片づけがきっかけになるかも」と話しました。

そして数日前、
「そのあと、家の中の、他の物も片づけてみたら、目の前がすっきりして、
ごちゃごちゃだった家がすっきりしたら、気持ちも晴れてきたんです!」と元気な声。
さらに、ご本人が片づける姿に家族も一緒に、自分の物を片づけているうちに
家族の方も片づけに協力。それぞれが自分の持ち物を整理したら一体感が生まれ、
会話も生まれ、笑顔が生まれたというのです。

今日、来られた姿を見て驚きました。顔つきも晴れ晴れとして、笑顔がとても明るい。
以前から「にっこり笑うと、とてもチャーミングですよ、ご家族もきっとあなたのその笑顔が見たいのですよ」
「そのためには、周りの目を気にしたり、遠慮せず、自分がやりたいことを楽しむことですよ」と語ってきましたが、本当にその通りになったのです。びっくりしました。

それまで「あれをしたら、これもしたら」とたくさんの選択肢をならべては
「でもできないかも」「家族に迷惑かけるし、、、」とため息をついていたその方から
「これは続ける」「これは続けるけどつきあい方を決めた」と、自己決定の言葉が聞かれました。

「いまの自分にとって大切なもの」と「つい捨てられずにしまいこんでいたもの」。
「いつも目の前においておきたいもの」と「そっととっておきたいもの」
モノを整理することはココロを整理すること。

私もよい学びをさせてもらいました。

2015年10月16日 19:40

想いを吐き出すことの苦しさとふりかえり

以前、電話をかけてきては、長時間自分の辛い想いを語る方がいました。
なるべく、途中で話をさえぎったり、私の考えを差し込んだりせず、思いのたけを聞くことにしていましたが、
あるとき、
「米山さんに心の内面をさらけ出すと、かえって、閉じ込めていたものがいっぱい出てきて
そのあと、すごく苦しい。誰に話を聞いてもらっても、話をすると苦しい。
どうしていいかわからない」とメールで訴えてこられました。
どうしたらいいのかわからず、その後も電話がかかるのですが、出ることができませんでした。

私も月に1回、「こころのともしび」の指導をいただいている塩山先生に個人カウンセリングを受けています。
自分自身も、カウンセリングの後、同じ苦しさを感じることがあります。

話したからといって、解決がつくわけでない課題。
「人に言ったからといって、結局自分自身で何とかするしかないことをなんで言うんだろう」
「どうにもならないことは、心の中に押し込めて、淡々と、解決のために行動した方がいいのに」
と、自分が吐き出した言葉が、目の前の宙で浮いていて、その宙ぶらりんになった自分の心のおさまらなさに落ち込んでしまいます。

でも、少し経つと「そんなことを打ち明けてしまう自分がいること」を意識するようになります。

自分の中にいる、「泣き言をいう自分」や「心の奥にとどめていた『どうしようもない』想い」を
発見して、「ああ、自分って、こんな人間なんだ」と思ったり。

弱い自分、解決つかない想いが目の前にさらけだされることは、きつい。
でも、それは、そんな内側の私自身が
「この存在を無視するな!いい恰好するな!立派な人間になろうなんて思うな!」と主張しているからなんだ。

そんなふうに思うようにしています。

葛藤はなくなりませんが。

2015年10月13日 11:46

同じ傷みを共有するということ

秋の花

こころのともしびが忙しくなった最近は、仕事の残業も増えています。

先週金曜日もそんな残業の最中。正直疲労がたまっていました。
時々、仕事のスケジュールが迫る中で、日中は「ともしび」の活動、夕方以降は明日までに仕上げなければいけない仕事、という生活に体の疲労と共に心の疲労や焦りなどがたまって、深夜の仕事中に心が追い詰められることがあります。

そんな最中、1本の電話が鳴りました。
かけてきたのは、思春期に心身性の病気にかかり、
それが原因でいまも外出がままならない、という若い女性。

「新聞を見て、そちらに伺いたいと思うのですが、外出が困難で。。。」
「誰かとつながりたいと思うんです。外の世界とつながりたいと思うのですが。。。」

聞くと、遠方の人。電車の乗継ぎも難しそう。

こころのともしびでは、基本的に、いきなりかけてきた電話には、電話口での長時間の傾聴はしません。
スタッフも食事の準備や、それぞれの専門的なサポート、傾聴などの最中だから時間が取れないためです。
「ここは電話専門の窓口でないので、かけてその場で長い時間のお話はできないこともあります」と説明しています。
しかし、その方の困難な状態を考慮して、時間を決めてかけてもらった場合は傾聴と同じように時間をとってお話をすることにしました。

こころのともしびのスタッフのほとんどは色々な困難を克服してきた人たち。
電話口の彼女と同じ、思春期の心身性の病気を経験しながらも、
いまも、それが原因で体の不調と戦いながら、仕事をし、結婚もしているスタッフがいることを伝え、
「そのスタッフがお話を聞いたら、きっとあなたのお気持ちをとても理解できて、ゆっくりお話ができると思うのですよ」
と話したら、
その方は「ああ、つながった。やっとつながった」と、何度も何度も電話口でつぶやくように繰り返すのです。

仕事の疲れがすっとひいたように思った瞬間でした。

2015年10月04日 20:19

「死にたい」衝動は「気持ちの持ちよう」で解決するのか

最近、うつ症状がある人で、突然希死念慮や強い孤独感が発作的に高まる人と話をすることが続きました。

以前から、急性的な気分の落ち込みがある人には、精神科の受診について尋ねることもよくあります。
ちょっと前までは「精神科に受診して向精神薬をもらっても、薬害や薬への依存が怖くて、薬を飲まない」という話が多かったのですが、
ここのところ、医師側が患者の「こころの病」を認めず、治療方針も決めず、薬も出さないケースが続いています。

もちろん、「話を聞く」ことの大切さを知るからこそ、今の活動をしているのですが、
発作的な状態で電話をしてくる人に相対すると、
「ここまで重いうつ状態にある人を、本当に『話をすればよくなる』と思っているのか?」と
医師の見立てを疑うことも少なくありません。

向精神薬については、数年前から賛否両論、というより、どちらかというと否定論が強く、
まず、当事者が薬に恐れを抱きました。
お話を聞いていても、向精神薬は処方されても飲まない、とか
以前に行った精神科医の薬でひどい経験をしたので、医者にはかかりたくない、という話を多く聞きました。

でも「死にたい衝動が突然強くなって、自分でもどうにも止められないんです。助けてください!」と電話口で叫ぶ人に
「いつからですか?」
「前から時々そういう衝動にかられてしまうことがありました」
「精神科医はどのように診断したのですか?」
「精神科では『あなたは病気でないので、薬は出しません。誰かと話をするとかして、自分の気持ちを解決しなさい』と言われました」

「誰も助けてくれない」「はしごをはずされた」絶望感。

それでも何度かにわたって電話で話をしているうちに、とりあえず、発作はおさまったようで安心しました。
でも、いつ、自分がこの発作に襲われるかわからない、その恐怖感は未解決です。
 

以前、精神科医が自ら
「薬では精神疾患の『根治』はできない。カウンセリングや傾聴、身近な人への相談などを通じて時間をかけて直していかないといけない。
でもね、
その『話ができる状態』が大きく失われている時に、とにかく、状態を改善するために薬が必要な時もある、と思ってほしい」と話していました。

私は、その話で、ちょっと腑に落ちた気がしたのですが、どうなのでしょうか。

 

 

2015年09月21日 19:03

中国新聞(9月9日)で「こころのともしび」が紹介されました

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今日(9月9日)、中国新聞の「くらし」欄で「こころのともしび」の紹介記事が掲載されました。

朝から、問い合わせや訪問依頼の電話がたくさん寄せられました。

反響の大きさに驚くとともに、
人に話せないことで深く悩んでいる方がこんなにたくさんいることに改めて驚いています。

これからが、本当に気をひきしめるときだと思っています。
「心のともしび」を求めてここに来られた方が、小さくても、心に灯りをともして帰っていけるよう、
スタッフとともに、心をつくして頑張っていこうと思います。

PDF版はこちら
2015年09月09日 20:08

社会福祉士の資格を目指しています

今年の4月から、広島福祉専門学校の通信課程に入学し、
通信教育で「社会福祉士」を目指す学生になりました。

分厚いテキストを読み込まなくてはいけないのですが
なかなか自宅学習ができない(>_<)

6月から始まったスクーリング授業。月2日ずつ、週末に主に現場実習に向けて必要な知識と
実習に向けての心構えを学びます。
これもなかなかに体力のいることです(もう若くないので)

先週のスクーリングはたまった疲れもあり、ヘロヘロになってしまいました。

ろくにテキストも読んでいない私ですが、でも、学んでみてよかったと思うのです。
「福祉」の世界を、歴史的・法制的・組織的・学問的に学ぶことは、
自死遺族支援や自殺防止に向けて、情緒的な「よりそい」に加え、
具体的に、その方自身が向き合う「問題解決」を、一緒に考えていく上でとても大切だということが
今更ながらですが、よくよくわかりました。

何十年かぶりに学生になった私ですが、
それにしても、頭脳のチカラにも加齢による劣化がはげしく、、、、苦戦しています(T_T)        

最短で再来年1月の資格取得に向けてがんばります。


2015年09月07日 18:02

価値観のチャンネルを合わせること

今週の月曜日、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で見た
谷口仁史氏の「寄り添うのは傷だらけの希望」
http://www.nhk.or.jp/professional/

深く感銘し、また、衝撃を受けました。
谷口さんは、不登校や引きこもりの子どもたちの支援を行う佐賀のNPO法人の代表です。

≪番組紹介コメント≫

ひきこもり、不登校、自殺未遂・・・社会の人間関係に傷つき、心を閉ざした若者たちの多くが、悩みや苦しみを誰にも打ち明けられず、孤独の中で暮らしている。そうした若者たちを救うため、谷口は“アウトリーチ”と呼ばれる訪問支援を行う。若者たちのもとに、こちらから出向き、直接支援する手法だ。谷口は、このアウトリーチの達人と言われる。
「ひきこもりや不登校、そして非行など、若者たちが抱える課題は、社会から孤立することによって深刻化しやすくなります。そうした若者が自分から相談施設に足を運ぶことは難しく、彼らが自立に向けたきっかけを得るには、アウトリーチが必要なんです。」
だがアウトリーチは、極めて高い援助技術を要し、熟練の支援者でも取り組むことが難しい。心を閉ざした若者との直接接触はリスクが高く、彼らをさらに追いつめ、状況を悪化させる恐れもあるからだ。しかも、谷口への相談のほとんどは、複数の支援機関がすでに本人との信頼関係の構築に失敗し、対応できなかったケース。そのため本人の、支援者に対する不信感や拒否感が強い場合が多い。最大の難関は、最初のアプローチだと谷口は語る。


谷口さんが大切にしている「仕事の流儀」とは、「価値観のチャンネルを合わせること」。
対峙する子どもは、何が好きで何を大切にしているのか。
子ども自身の『価値観』に神経を研ぎ澄ませ、まず好きなことに徹底的に付き合います。
そこから心をほぐし、深い心の痛みの入り口を開けるのです。

色々な引き出しを持っていないとできないこと。知識や資格があってもそれだけではできないこと。
「お話、聞きますよ、好きなことから話していいよ」という姿勢ではできないこと。

NPOには臨床心理士や社会福祉士などのスペシャリストスタッフが多く、
また、佐賀県や佐賀市などの協力を仰ぎ、教育、保健、福祉、医療、矯正保護、雇用などに関係する組織が一丸となって支援を行う体制ができていることも圧巻です。

「アウトリーチ」は、今必要性が叫ばれながら、なかなか実現しない。
どうしても人間は、自分が今いる「枠組み」に守られながら(自分の安心を確保しながら)
人に手を差し伸べようとする。

そこには、「あなたを助けてあげるから、ここに来なさい」という姿勢がぬぐえない。
それでは、本当に助けを求めている手を「差し伸べる手」にならない。

自分自身も、自分の生活も大事だし、、、、リスクもあるし、、、何かあったら責任が、、
そんなことを考えていたらできない。

一方で、谷口さんが体を張ってできるのは、行政を始め、多くの機関が連携し、協働してこそでもあります。
NPO法人や個人が単体でリスクを背負ってできることではありません。
その意味では、佐賀県、佐賀市の「本気度合」も伝わってきます。

谷口さんの仕事を見て、自分の向き合い方の甘さに
頭をガツンと殴られた気がしました。

2015年09月02日 19:06

親子とは一番近くて一番重い関係

「こころのともしび」には、こころに苦しみを持った本人だけでなく、
子どもがうつなどの「気分障害」を抱えている母親の相談者も多く訪れます。
始めの相談は、「子どものことで、、、」と切り出される方も、お話を聞いているうちに、
まず、親である相談者の、行き詰まり感や焦りを「緩めてあげないといけない」と思われて、
「子どもさんが相談に来られる前に、まずお母さんが来てお話をしてみませんか」と呼びかけます。

ほとんどの方が、自分自身が行き詰まり、考えがもつれ、視野がせまくなっているからです。
当事者を支える、一番身近な人の心を緩やかにし、視野を広げ、たまったガスを抜くことも傾聴の役割だと思うのです。

そして相談に来られると、
「子どもの『心の病』がよくない、どうしてあげらたらいいんだろう」
「自分は何をしたらいいんだろう」
「とても心配しているのに本人が自分に相談してくれない」
「夫が自分の心配する気持ちを正面から受け止めてくれない」

そんな、母親としての辛さ、苦しさを打ち明ける人が少なくありません。

お話を聞いていると、親、という存在のもどかしさや限界に、私自身も一緒に辛くなってしまいます。


少し前に、うつを経験したある人が
「子どもの立場からすると、親には心配をかけたくない、のが自然の気持ち。親を苦しめていると思うと、倍、自分も辛くなる。
親はむしろ『何とかなるよ』くらいの鷹揚な気持ちでいてほしい」と話してくれて
そうなんだ、、、、でも、それは難しい、と思ったことがありました。

なぜなら、親の仕事は「子どもを心配する」ことだから。

一方で、子どもの頃から「親が自分のことを心配してくれなかった、自分に関心を持ってくれなかった」と、
それが大人になった今も病根のように残り、そのことが根本原因となって、対人関係がうまく運べない、と
悩みを相談しに来る人もいます。

親子って、本当に一番近くて、一番重い。

色々なお話を聞きながら、ふと思うのです。
「もし、自分が娘のうつに向き合うにあたってこういう場所があったら、心をゆるやかに広くして、娘と向き合うことができただろうか、
その結果、いのちを救うことができただろうか、」と。
その答えは出ることがありませんが。

 

2015年08月23日 23:30

自死遺族の分かち合いに参加する人は暇と金のある人、ということらしい

先日、某メディア担当者から、いきなり電話がありました。

「小さな一歩の活動をホームページで見てお電話しました。
今、取材テーマが、「家庭の貧困と子どもの自死の関係」で。
貧困家庭って、親が生活に大変で、子どもに目が届かないから、子どもが悩みを話せず、自死しやすい、っていうことが一部で実証されているのですが、小さな一歩さんにはそういう遺族の人はいますか?」

「うちの分かち合いには、子どもさんを亡くされた遺族はたくさん来られますが、みなさん、悲しみや、亡くした子どもへの愛をお話しになるので、そういう方は知らないですが、、、、」

「そうですよね、分かち合いって時間とお金に余裕がある人が来るから、貧困家庭の人は来ませんよね。
もしそういう人がいたら取材したいと思ったんですけど。
どなたか紹介してもらえないでしょうか?」

「・・・・紹介できる人はちょっと。。。」
「ああ、わかりました。。。すいません」

多少、前後に他のやりとりもありましたが、この短いやり取りの中に、自死や自死遺族に対するどれだけの偏見が、こともなげに語られていることでしょう。

「貧困家庭では親が子どもに気を配る余裕がないから子どもが孤独」
「親に愛されていないから子どもの自死念慮が高まる」
「分かち合いに来るのは、暇とお金が余っている人」

分かち合いに参加する方々が、サロンのように着飾って、暇つぶしをしに来ている、とでも思ったでしょうか。

遺族に録音機をつきつけて、何を聞くつもりだったでしょうか。

ホームページを見た、と聞きましたが、私が子どもを亡くした自死遺族の1人であることを、この担当者は少しでも考えたでしょうか。
私自身が傷つくかもしれない、と一瞬でも考えた上での発言でしょうか。

逆に、このメディアが子どもの自死について、どのようにまとめるか、見てみたいと思いました。

今日も、夏休み明けに子どもの自死が集中していることについての有識者の論評はいかにもわかっていない、というものでした。

いつまで、自死や自死遺族に対する偏見がなくならないのか、つくづく考えさせられました。

2015年08月19日 19:47