広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」

自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い

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ブログ風 日々のつれづれ

亡き愛する人への切なる想い

先週土曜日の分かち合いは、12人と、多くの方の集いとなりました。

来てくださる方に感謝の気持ちがいっぱい。
でも、みなさんが十分に話し、聞くことができるかと不安になりましたが、
濃い話し合いの2時間だったと、自分では思えましたが、、、、
皆さん、どうだったでしょうか。

参加者の方が、1編の詩を持ち寄り、読んでくださいました。
愛おしい人を突然亡くした人の気持ちが、これほど哀しさと愛おしさにあふれる言葉で語られているとは。。。。

私が娘に語り掛けたい言葉、そのものでした。
娘のビデオを必死で探したけど、最近のものは1つしかなく、
それは声も顔もきちんとしたものではなくて、、、、でもいったい何回繰り返し再生しただろうか。

私がこの詩を読み上げたら、娘のもとに届くだろうか。

「言葉」とは、なんと私たちを包み込み、同じ想いを分かち合わせてくれるものでしょうか。
すでにご存じの方もあるかもしれませんが、広くこのネットを通じて分かち合いたいと思います。

「最後だとわかっていたなら」
作・ノーマ コーネット マレック 訳・佐川 睦


あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように
祈っただろう

あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう

あなたは言わなくても
分かってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう

たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

そして わたしたちは 忘れないようにしたい

若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを

明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから

微笑みや 抱擁や キスをするための ほんのちょっとの時間を
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと

だから 今日
あなたの大切な人たちを
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも
いつまでも 大切な存在だということを
そっと伝えよう

「ごめんね」や「許してね」や
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう そうすれば
もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから

 この詩は本として出版もされています。
詳細は
サンクチュアリ出版のhpから
 

2013年12月23日 12:56

心からの声にわがままになろう

昨年の年末ごろ。
「小さな一歩」の設立準備をしていた頃は、
「こんな小さな集まりを世の中の人は気づいてくれるだろうか」と
とても心配だった。

「仮にどんなに、志があって、よかれと思って『していても』、
それが“知られることなく、必要な人に届かなかったら”
それは『していない』に等しい」と思っていた。

だから、存在を知ってもらうことにいつも頭を悩ませてきた。

色々な講演会やセミナー、集いにも自分から参加してみた。

閑散として、参加者が身の置き場がないような会も中にはあったが
主催者が信念を持っている会には感動させられた。

そういう機会を経験して、逆に思ったこと。
「人を『集めること』にこだわることはやめよう」。

集まった人数や規模は、その会の価値と、必ずしも等しくない。
伝えるワザに長けているかどうか、
目につきやすい仕掛けがうまいかどうか、
そんな違いにすぎないことも多い。

志がない活動に多くの人が集まってもそれはあだ花にしか過ぎない。

幸いにも今年、小さな一歩の分かち合いで得た「出会い」は
これからの「小さな一歩」の核となり、原点となるものだった。

分かち合いの参加者の方々、
シンポジウムなどで応援して下さった方、、
会の広報を後押しして下さった方々。

今までのどの1年より、中身の濃い出会いがあった。


だからこそ
来年は、自分が心から求めていることをしよう。

私自身が聞きたい人を呼んで話を聞き、
自分が訴えたいことを正直に訴えよう。

多数の支持があるかどうかは、あくまで結果。

伝えたいメッセージを理解し共感する人がいれば、数は問題ではない。

 

2013年12月19日 18:46

「生きていればいいことがある」のか

週末に悲しいことがありました。

間接的な友人が自死で亡くなったのです。

今日の昼、葬儀にうかがい、直接の友人と話をしました。

長い間、生きづらさを抱えながらなんとか頑張って生きてきた。
経済的なこと、身体のこと、過去のつらい出来事のこと。。。。
色々なことが複数にからみあって、生き尽きた。

先週土曜日にライフリンクの清水代表の講演会があり、
自死とは「生きることを促進する要因」より「生きることを阻害する要因」が大きく上回ってしまい、
「死にたい」ではなく「もう生き続けることをやめたい」という心理がはてしなく膨らんだ結果だと
お話しをされていました。
自死にいたるまでに4~5の阻害要因が重なっていることが多いそうです。


葬儀からの帰り道、
「仮に発作的にでも『生きる促進要因がゼロになるような思いをしている人に、
(そしてそれは、他人では気づけず、手を差し伸べられないような、深いところにあることで)
その人に、自死はよくない、がんばって生きなさいと、言いきれるだろうか。」と
ずっと考えていました。

「生きていればいいことがあるよ、死んだらなくなるよ」と人は言うけれど、
その「いいこと」は結局、本人が自力で手に入れなくてはいけないのです。

他人は、「いいこと」のきっかけを差し出したり、教えることはできるけど
それを自分で手を伸ばしてつかまないと、その人にとっての「いいこと」にはならない。
自分から「いいこと」に手を伸ばしてつかむ努力自体が辛く、苦しいことの連続だったら。。。

亡き人の顔は安らかでした。
「すっかり覚悟を決めて『もう生き続ける辛さを考えなくていいんだ』と思ったとき、
初めておだやかな気持ちになっただったのかもしれません」と
遺族の方がおっしゃっていました。

死なないこととは、生き続けていくこと。本当に長い道のりです。


葬儀場の帰り道に娘が勤めていた職場があります。
今まで近くまで行っても、どうしても立ち寄れなかった場所。
今日はふと、訪ねてみました。

定休日で人影はなく、ショールームはひっそりとしていました。

娘とショールームの展示車を見ながら車の購入を決めたときのこと。
車の手続きで何度か店に行ったとき、
他のお客さんに接客していたときの娘のいきいき、きびきびした顔。
購入手続きや保険について語っていたときの目の光。

色々な面影が、灯りのついていないショーウィンドウごしに浮かんだようでした。

「ここでがんばって生きていたんだよね。」
と声をかけて、店をあとにしました。


 

2013年12月09日 14:35

「統合失調症がやってきた」

昨日NHKの「朝イチ」で統合失調症について取り上げていて、
「松本ハウス」のハウス加賀谷さんが自分自身の闘病について語っていました。
横では、相方のキック松本さんが、彼を見守るように同席していました。

私は最近、2人の共著(たぶん加賀谷さんの語りを文章にまとめたのも松本さんだと思う)
である

「統合失調症がやってきた」

を読みましたが、
統合失調症の症状の苦しさや恐ろしさが、大変詳細に書き起こされ、
ときには自虐ネタのような、2人のかけあい形式で書かれてます。

人気の絶頂期に、実は病と戦いながら舞台に立つ加賀谷さん。
病が原因で起こる色々なアクシデントやトラブルも鷹揚に受け止める松本さん。
病状が進行して廃業、入院闘病生活10年間の壮絶な日々。

退院後に接客業で社会復帰を目指すが、職場でトラブル続きで転々とする加賀谷さん。
彼の復帰を願いながらも「自分から声をかけるとプレッシャーになる」と
加賀谷さんから「もう一度やりたい」と言われるまで、長い目で見守り続ける松本さん。

読んでいて胸が苦しくなるような辛さなのですが
どこかに乾いた、自分の状況を苦笑しながら客観視しているような目線があるので
本として、読みみやすい。

たぶんこれは、加賀谷さんの生の言葉を、伝わりやすく、心にすっと入る
(だから共感しやすい)文章にまとめあげている
松本さんの表現力がなせるものだと思います。

いずれにしても、
自分自身の(見方によっては)負の体験を自分の言葉で世に送り出す。

名前も顔も出して、世間の逆風を覚悟して(世の中には本当に、人間不信で中傷好きな人間が多い)
「同じ想いで苦しんでいる人への理解が深まるように」発言していく。

この前のブログでも書いたけど、その勇気に感動します。

同じように

「人生は終わったと思っていた(アルコール依存症からの脱出)」
著者である月乃光司さんの、
書名どおり、闘病生活と社会復帰の苦しさを描いた本として、
また、それでいて、どこかに、自分を客観視した乾いた目線がある点で
心に突き刺さるものがあります。

私はこの本を読んで、アルコール依存症の人に対する意識が大きく変わりました。

今日、精神疾患患者やアルコール依存症が加害者となっている
事件や事故が多いように思うのですが
そういう世相だからこそ
「こわいね」「やだね」ではなく、
心の病を持つ方に対する正しい理解が、世の中にあることが大切だと思います。


 

2013年12月05日 11:01

NHKスペシャル「僕はなぜ止められなかったのか」

8月に放映され、10月に再放送があった番組です。

さらに1か月もたった今日、録画していた番組を観ました。

途中から涙が止まらなくなりました。

3年間に起きた、中学3年生、篠原真矢君の自死。
2年生のときに自分をいじめていた同級生が3年でも同じクラスになり、体育祭のクラスの応援団長になり、クラスのヒーロー扱いになる。
真矢君は、気持ちの上で許せず、体育祭の後、その男子の教科書をずたずたにしてしまい、そのことでいじめが再開するだけでなく、加害者としてクラスの中から孤立する。

仲良しだった小島君も、クラスの空気に流されて、真矢君に一歩ひいた「傍観者」になってしまう。

ある日、一緒に行くはずだったカラオケに真矢君は現れない。その時間、彼は小島君と他のクラスメート15人に遺書ともいえるメールを送っていました。
メールを送っていたのが12時すぎ。亡くなったのは2時台。

その間、彼はこのSOSに対して、誰かが連絡してかけつけてくれることを最後の望みにしていたのでは。
でも、不運もあって、誰も彼に連絡をしなかった。

その間、1時間の、真矢君の孤独と絶望はどれほどだったろうか。
元々ひょうきんで友達好きだった真矢君。
どんな想いで命を絶ったのだろうか。
胸が引き裂かれるような想いがします。

小島君はその後3年間、自責の想いを抱えます。

真矢君がたびたびが発していたサインを中学3年生の受け流してしまったこと。
同級生にいじめられている彼をかばってあげることができなかったこと。
自死当日も、真矢君からのメールを自宅に携帯を置いていったために気づかず、気づいたときにはもう遅かったこと。

「修学旅行、楽しかった」「もう恨んでないよ」メールに書かれた言葉を彼はずっと背負ってきた。
彼は死の直前にメールを送られていた15人の友達に声をかけ、亡き親友の月命日に彼の家に友達で集まる。3年間欠かさずに。

受験を控えた彼に真矢君の両親は「もう、楽になっていいんだよ」と声をかけます。

「3年間、ずっと君に自責の想いを抱えさせた、君に息子は残酷なことをした、すまなかった」
「受験をがんばって君たちには幸せになってほしい。真矢のことは忘れられないと思うけど」

両親も、自死直後はいじめの当事者とともに、息子を救ってくれなかった友人を恨んだといいます。
しかし、3年間、親友が背負ってきた、だからこそ毎月、つらい場所に自分から訪れ続けた彼に対して
「もう肩の荷を下ろして、自分の幸せのために生きてほしい」と思ったのでしょう。

「しんどかったね」その一言にすべてが集約されている。

「自分だったら」と考えずにはいられませんでした。
毎月来てくれることはうれしい。
でも、若い時代の生活の変化は早い。
毎月集まるために、小島君にも級友にも負担がたまっていくのでは。
まして、みんなこれから受験の本番。その後はそれぞれの道に分かれていく。

親としても心苦しい。
段々集まる人数が減っていくのもつらく、寂しい。
それを食い止めようと小島君が苦しむ姿も見たくない。

であれば、親からむしろ「そろそろ卒業したら・・」と声をかけよう。私でもきっとそう思う。

小島君は「真矢君のことを忘れることはない」と言いました。
彼は月命日の集まりを今後続けるのか、それはわかりません。


高校3年生の彼も両親も実名と顔を出して応えたロングインタビュー。

「もうこのような悲劇は二度と繰り返してほしくないから」と最後に結んだ言葉。

番組放映のあと、無責任で心ない投稿が2chに集まったけど、それも覚悟しての勇気だったのだと思います。

小島君を応援したい。
「真矢君のことを忘れず、しっかり生きて、そして自死防止のために取り組む人になってほしい。」

 

≪関連HP≫

番組紹介HP

NHKオンデマンド

番組評価

もし、見逃したけど今から見たい、という方はご連絡ください。DVDにして送ります。


2013年11月26日 21:46

広島市で「自殺予防フォーラム」が実施されます

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自殺防止活動のトップリーダーであり、「自殺対策基本法」成立の立役者、
 
現在内閣府参与として国の自殺対策に関与する清水康之氏の講演。
全国で精力的に講演をされる清水氏、広島ではなかなかお話しを聴く機会がありません。
 
広島国際会議場地下1階 中会議室 
12月7日 13時30分~15時40分

 
主催は「いのちに寄り添う会」電話 090-5690-2727 松尾さん

 ぜひご参加ください。

 
2013年11月22日 10:38

そこに魂はあるのか

先週の日曜日、広島県と広島市が主催する

「児童虐待防止キャンペーン事業特別講演会」という催しに行ってきました。

いま、親による子どもの虐待は大きな社会問題となっています。

また、子ども時代に様々な形で親から虐待を受けた子どものトラウマは
(身体的暴力だけでなく、言葉の暴力、ネグレクト、養育放棄など色々な意味で)
深く深刻な心の傷を残し、一生その子どもの人生に影を残す。

大阪府の調査でも、児童養護施設出身者は
「親に必要とされなかった、自分の存在を拒否された」過去への想いから
自己否定感が強く、自分の存在価値を見失って自殺危険が高い、という報告があります。

ということで、無関心ではいられないテーマだったので聴講しに行ったのですが、、、、

これは何かの間違いだろうか???
と思うほど、会場内に熱気が全くない。
定員547人とありましたが、どう見ても100人も来ていないし、
席の前後左右から聞こえてくるのは、“動員されたのでつきあいで”来たと思われる職員さんの話ばかり。

講演者の話の中には、心に迫る言葉がありましたが、その言葉も上滑りに流れていくような進行で、
今現在の児童養護施設が抱える現状や親子関係の病理を問いかけるような
魂に訴えるようなものがほとんどありません。

このような社会問題に切り込む講演会なら必ず、県や市、関係機関やボランティア団体、
その他の啓蒙パンフレットがあっていいはずなのに、配られたのは
「オレンジリボン」のマウスパットやメモ帳程度。

講演会の題目、主催者名、疑いなく立派な看板をかかげながら。。。

これは何かの手違いで、すべてが準備不足になってしまったのだと、むしろ思いたい。
主催者が本気を出した結果がこの内容だと思いたくない。

ずいぶんいろいろな講演会やシンポジウムを見てきましたが、(もちろんどれも完全ではないけど)
帰り道に哀しく、寒い想いをしてとぼとぼ帰ったのは初めてでした。
2013年11月20日 23:42

広島女学院大学 チャペルアワーでお話をしました。

 広島女学院大学は、キリスト教系女子大学で
私が通う広島教会とは、同じプロテスタント系で、以前からつながりが深い大学です。
7月の「自死問題シンポジウム」の際にも、惜しみない協力をいただきました。

その広島女学院から「チャペルアワーでお話をしてもらえませんか」とお声かけがあり
今日がその日でした。

今まで何度か人前で話をしましたが、女子大生(200人くらい?)を前に話をするのはは初めてですし、
広い講堂でもあり、とても緊張しましたが、
みなさんがとてもまじめな表情で聞いてくれて、メモをとりながら聞いている学生もあり、
ホッとしました。
 講義の後、講師控室に話をしに来てくれた学生もあり、緊張の中にも充実した時間でした。

  講義の粗原稿(pdf)

今まで、講演会やシンポジウム、新聞記事など、いろいろな場所をいただいて
娘の自死について、その後の「小さな一歩」の活動や私の想いについて語ってきましたが

信仰の面から話をしたことはありません。

でも、私が暗黒の闇から起き上がることができた、“はじめの一歩”は、
キリスト教の「永遠の命への信仰」がそこにあったから。
なければ何も生まれていなかった。

それを改めて、思い起し、声を大にして言いたくなりました。

日本は宗教(というか純粋な仏教や神教以外?)に対して冷たい国です。
特にキリスト教は、歴史的にもそうだし、
やっと市民権を得たのち、現代に、キリストの名を語ったカルト教集団のせいで
「なんとなくうさんくさい」視線がぬぐいきれない。

「小さな一歩」も、教会を会場に使っていると
何度となく、
「宗教を強要しないのか」「聖書を読んだりしないのか」「なんで教会でやるのか」など聞かれます。
教会の方がそれを気遣ってくださり、会場貸しだけで、「そっと見守る姿勢」を貫いてくださっっています。

「はい、宗教活動は一切していませんけど。」
「それが何か?」と思うこと、ままあり。

今日はいままでと違った意味で私の2年半の心の道のりを思い切り話せて大満足でした。




2013年11月12日 15:01

色々な反響をいただきました

記事掲載ページ「中国新聞掲載記事」

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自分の名前や顔が新聞に出て、
  
自分の考えを語る、ということは3年前の自分には考えられないことでした。
このように活字になっていると、自分が自分でないような不思議な感覚にとらわれます。

記事で紹介されたように、
集まった人たちが一人も期待を裏切られることなく
「ここにくれば心がやすらぐ」「想いのたけを話して楽になれた」
と思ってもらえる場であるように、
まだまだ、すること、考えることはたくさんあるのだと改めて思いました。

新聞を読んでお電話をいただいた方の中には、心に大きな傷を持っていて
「分かち合い」に関心がある人もあり、
そのような方々にとって
この会との出会いが、回復のための「小さな一歩」でありたいと思います。
2013年11月07日 17:52

中国新聞に投稿記事が載ることになりました


 いつも何かと支援をいただいている中国新聞「洗心」(毎週月曜日)欄の記者の方に

 以前から「ページに投稿しませんか」と勧められたものの、
 内容がうまくまとまらず、ぐずぐずしていたら
  
  「●月●日の紙面に間に合わせたいのだけど」とやんわりおしりを叩かれ、何とか粗原稿を出しました。

 
 相手はプロですから、私のもたもたした文章をきちんと整えてくれます。

 でも、あまり整えすぎて、肉声(肉想い?)が消えそうなところは、
 私の気持ちを十分にお話して再度修正のキャッチボールを交わしました。

 そんなことを何度か繰り返し、なんとか校了に間に合いました(^_^.)

 来週の11月4日(月)に掲載されるそうです。

 もし記事を読まれる方がいたら、先に言っておきますが、私は記事で書いているような
 清く正しい行いをするような人間ではけっっっしてありません。。。(>_<)
 失言もするし、気働きも足らないし、独りよがりなところもあるし。。。。

 というような葛藤を抱えているときにちょうど、
 全国自死遺族連絡会の田中会長と電話をすることがあったので、弱音を吐いたところ、

 「いいのよいいのよ、はじめはそれで!
 そうやって、本当の自分より立派なように『誤解して』もらっていると、
 本当の自分がそちらに近づこうとがんばるようになるのよ!」


 さすがだな~。
 


2013年11月01日 17:27