広島の自助グループ 「NPO法人 小さな一歩・ネットワークひろしま」

自死遺族支援、自死(自殺)防止のための支え合い

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ブログ風 日々のつれづれ

心が折れそうな時の自分のために

自分の気持ちが通じないとき

世の中のつまらないルールの中で前に進めないとき

空しさと限界に押しつぶされそうなとき

誰にも何も届いていないと思えてしまうとき

不安の中で道に迷うとき

そんな時、自分が思い出せるようにここに残しておこう

マザーテレサの言葉

マザーテレサの教え「あなたの最良のものを」

心がおれそうなとき、いつもこの言葉に帰ってこよう。

私自身のために。
2014年02月21日 20:03

分かち合いで学ぶことが多い

先週土曜日に行った「自死遺族の希望の会」は
その後の軽食会を含め、13人の参加となりました。(うち2人はお子さん)

分かち合いの話の中で、親御さんを亡くされた方と子どもを亡くされた方では
ずいぶんその受け止め方や、その後の人生についての考え方が違うのだな、と改めて胸に突き刺さることがありました。

子どもを亡くした親、として私は
「人生でこれ以上はない絶望や苦しみを経験すると、もう怖いものはなくなってしまう」
と言いました。

この先、どんなことがあっても、あの出来事に比べて大きい苦しみは何もない。
また、もうそこそこの年月を自分なりに生きてきたから欲もないし、手に入れたいものもない。
怖いものも、欲もない自分は、次に子どもに会うことを楽しみに残りの日々を消化するだけ。

この言葉に、子どもさんを亡くした方の中で、うなずく方が多くありました。

一方で、親御さんを亡くされた方で、
人生の手本とすべき人が自ら死を選ぶと
何を生きるための教科書にしていいかわからなくなる、
一から「生き方」を自分で探すために、毎日が模索なのだ、と話された言葉が胸に突き刺さりました。

同じ立場の方が「自分もそうだ」と言われました。

子どもを亡くすと、それまでの人生が否定され、
親を亡くすと、これからの人生を見失う。

自死遺族の中でも、立場や関係によって、こんなにもその後の人生への向かい方が違うことに改めて、グリーフのむずかしさを感じました。




2014年02月17日 19:59

大雪の中、自死遺族支援者スタッフ研修会

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2月8日(土)、大雪の東京で「自死遺族ケア団体全国ネット」主催の
「自死遺族「分かち合い」コミュニティのあり方 第8回スタッフ研修会」が行われました。

研修会の内容はコチラ

交通機関の混乱から、かなりのキャンセルが出るのではと心配されましたがほぼ出席。
沖縄から来られた方もいました。

帰りの交通機関の心配があるので、全体にスケジュールを早めて進行されました。
午前は藤井代表の基調講演。

「遺族が語ることは、死者から預かった言葉。
「生き残っている者を通して、死者が訴えているのです」と、
遺族が訴える、体験に基づく声を、「悲嘆の吐き出す」ことにとどまらず、
自死防止対策の場に積極的に活かしていくときが来ている、とお話しになりました。

午後からパネルディスカッション。
岐阜の自助グループ「千の風の会」代表であり、岐阜県総合自殺対策協議会の委員でもある木下さんからは、
自死遺族の分かち合いの立ち上げから、自死遺族支援活動にとどまらず、
自殺防止対策会議でも、遺族である小林さんと岐阜県は、お互いに協力しあいながら
対策を推進しているとのこと。

うらやましいような二人三脚ぶりです。

また、グリーフサポートプラザ理事のS.Y氏からは、
充実したスタッフ研修体制、研修を通して多くのスタッフがグリーフサポートに携わっているお話をお伺いし、
もちろん比較するのもおこがましいのですが、つい「うらやましい。。。」と思ってしまいました。


色々な方の話を聞くと、改めて、
「小さな一歩はまだ、ほんとに「小さな一歩」を踏み出したに過ぎない、
この先、どこまで歩き続けられるのだろう、道はどこまで行き着くのだろう」
と、これから歩いていく道のりに想いをはせ、ため息が出るような思いがしました。

でも、いつも大切なことは「小さくても一歩を踏み出すこと」だ。

まとめをされた奈良女子大学の清水新二名誉教授は
自死遺族の分かち合いについて
「分かち合いは自死遺族の心の灯台のような存在。
人が集まらない時があっても、灯りをともし続けることが大切。
存在していること自体が意味がある」
とスタッフにかけられた励ましを、胸に抱いて帰りました。

今年の夏に、第2回の講演会を開催することに決めました。
藤井代表にお願いしたら、快く引き受けてくださりました。

テーマは「自死当事者の声を自殺防止につなげる」
にします。

2014年02月11日 13:20

他人と境界線を引くこと

先週の土曜日、広島県東広島市の安芸津教会で
「広島アディクション勉強会」という、さまざまな依存症を抱える方の「家族」のための会を見学に行きました。

「依存症」は、アルコールや薬物など『物質的なもの』が代表的ですが、ギャンブル、買い物、ネット、携帯電話、ゲームなど、「行為」への依存も含まれるとのこと。

「軽い気持ちで始めたことが、最初の動機。ところが、いつしかそれがないと落ち着かなくなり、やめると苛立ちや不安、絶望感が訪れたり、ケースによっては、つらい離脱症状が現れる場合もあります。対象に支配され、自分の意志で欲求をコントロールできなくなるのが、依存症なのです。」
にわか知識の私の言葉より一応の解説はコチラ(all About より

アディクション勉強会で実践しているプログラムはとても、数時間そこにいただけで語れるものではありませんが、
そこで聞いた、「4つのルール」というものが、とても心に残りました。

「支配しない」頭ごなしに批判したり、言うことに従わせるようなことをしない
「世話をやかない」 尻拭いをしたり、肩代わりや身代わりにならない
「先取り心配をしない」 この先どうなっていくんだろう、と想像の未来に対して過剰に心配しない
「当事者と自分の間に『境界線』をひく」彼はカレの人生、と考えて共依存をしない


理屈では「わかっている」この4つの原則を本当に実行できるまでに
身体が引きちぎられるような、血のにじむような苦痛があるそうです。

この4つのルール、いろいろな人間関係に共通しているように思えます。

特に「他人と境界線を引く」ことはむずかしい。

「他人が見たらどう思うだろう、なんて言われるだろう」
「自分の行為が周りから評価されなかったら、、、」
「●●が言うからその通り従ってきたのに」
「私の気持ちを●●がわかってくれないから、、、」
「(自分自身ではなく)●●がダメになったらどうしよう」
「●●に迷惑をかけるからがまんしよう」

自覚していなくても、気が付くと、このような思いにとらわれてしまいます。

「他人と境界線を引く」。
これは、全ての迷いや悩みに自分で解決をつけるためにとても大事なこと。

誰でも、自分1人で生きているのではないけれど、
「他人と支え合って生きていく」ことと
「他人と自分の境界線が引けず、共依存してしまう」こととは全く違う。

でも、むずかしい、本当にむずかしい。

「自分は自分!他人に何を言われようと、好きなようにする!」

本当の意味で実践できたら、肩の荷はどんなに楽になることでしょう。


2014年02月04日 19:44

つまるところは、ただの贖罪なのかもしれない と思いながら

2月8日に「自死遺族ケア団体全国ネット」が主催するスタッフ研修会
「自死遺族『分かち合いコミュニティ』のあり方」でパネリストをすることになりました。

自死遺族ケア団体全国ネットのHP

研修会案内
http://www.jishicare.org/20140208annai.pdf
(募集は締め切られています)

先日東京でパネリストの打ち合わせがあり、私が今後、小さな一歩の活動としてやっていきたい
ことなどをお話しました。

私がやりたいこと。自殺未遂者の救済と再発防止。

ちょっと熱く語りすぎましたが、藤井代表が力強く支持してくださり、とても心強く思いました。

帰りの羽田空港は夕焼けがきれいで、ぼんやりとベンチに座り、娘と語りあいました。

なぜだろう、
「あのとき、あなたが命をかけて伝えていた本当のメッセージ『生きたい!助けて!』」。
くみ取ってあげられなくてごめんね」

そう話しかけていました。

2014年01月29日 19:59

あの日が最後の別れの日だから私は忘れない

24日は娘の28回目の誕生日であり、
納骨して2周年、天国で生まれ変わって2回目の誕生日でした。

夫と娘の妹である次女、私の3人で広島教会の武田牧師にお願いし、墓前礼拝をしました。

その後、近くのワインバーで3人で食事。
この店は、歩美が私たちと最後に食事をした店。
その時は私たちの結婚記念日のお祝いだった。
亡くなる10日ほど前のことでした。

シャンパングラスを4人分注文したときは、お店の人がちょっと不思議そうな顔をしたけど、
食事中、ずっとそこに歩美のグラスがあると、本当にそこにいるような気がして。
いや、そこにいたと思います。

一昨年はこの時、納骨式で落ちつかなかった。
昨年は、小さな一歩の設立前で慌ただしかった。
考えてみたらやっと落ち着いて向き合えたような気がする。

お待たせしたね、歩美。

私が好きな加藤登紀子の「テネシーワルツ」。

「2人であの時聴いたテネシーワルツ
古いレコードの
ザラザラ聴こえる針の音まで私は忘れない。
あの小さな酒場の匂いさえ
あなたのシャツの色も。
あの日が最後の別れの日だから
私は忘れない。

真夏の昼下がり 人けのない街 私は歩いていた。
どこかで誰かが あのテネシーワルツ 口笛吹いていた。
知らないまま 通り過ぎる 乾いた日差しの中。
あのとき 聴こえた あのテネシーワルツ
私は忘れない。」


あの日、目の前で乾杯した娘の姿を思い浮べるとき、
いつもこのメロディが頭の中を流れています。

2014年01月27日 11:18

分かち合いにおける「支援者」の立場?

先日、自死遺児支援のセミナーで講習を受けてきました。

1年間「分かち合い」を続けてみて、
自死遺族(大人)に対するグリーフケアも大事だけど、
自死遺児に対するグリーフケアは違った意味でもっと重要だと常々思ってきたからです。

批判覚悟ですが、
例えば私は50代で子どもを失って、
自分の中に今もあるのは自責感と、哀しみと寂しさ、喪失感。

でも、そこから自分のために喪失感から立ち直り、人生を再構築しようという気持ちは薄い。
「娘の分も幸せになろう」という意欲はほぼ皆無に近い。
人生の軌道修正はできないし、無理にしようとも思わない。
「あのときは辛かったけど、それを乗り越えたから今の自分は成長した」とは死ぬまで思わないと思う。

でも、若い時、特に子どもは、これから人生を築いていかなくてはいけない。

自死や災害や事件、事故などで突然大事な保護者を亡くした後も
自分に起きた、理不尽な哀しみを乗り越えてほしい。
また、家庭内で自死が起きたことからくる、家庭内外からの二次的な精神的苦悩から守ってあげたい。
子どもは、社会的弱者ですから。

と思って、参加したのです。

とても参考になることもありました。

ただ、一点気になったことがあります。
「グリーフケアをする人は、自分自身の【喪失感】をまず整理しなくてはいけない、
相手の悲嘆感情から自分の感情を揺らしてはいけない、
それでは正しいケアができない」
と教わったことです。

自分は、はじめに参加した「自死遺族の分かち合い」で、
主催している自治体の担当者が、私の話を聞きながら一緒に泣いてくれたことが忘れられません。
自死遺族当事者でなかった担当者が、心を揺らして一緒に悲しんでくれたことで
とても救われた経験があります。

「一緒に泣いてはいけないのかな、冷静なやさしい心で、正しいグリーフケアをするのがいいのかな?」
と疑問に思いました。

でも、もし、私が「小さな一歩」を始めようとして、
そのための心の準備として、自分自身の喪失感や悲嘆感情を、まず、整理しようとしたら。。。
きっといつまでたっても、始められなかったのでは、と思うのですが。


2014年01月22日 19:09

丸1年を迎えて

小さな一歩の分かち合いは昨年2月の「自死遺族の希望の会」に始まり、
18日の「うつ症状のある方と家族の会」で丸1年がすぎました。

1年間が長かった。

毎回、「こんな会でいいんだろうか」「参加者が1人もいなかったら。。。」
と悶々としながら場を開きましたが、
幸いにも、色々な方の支えがあり、
終わった後はいつも、「今回も『やってよかった』」と満たされる思いで一杯に。

先日は、分かち合いに9人もの参加者があり、
互いに助言しあったり、励まし合いの言葉が交わされていました。

当事者同士だから言える、実感のあるアドバイス。
同じ想いのある当事者に言われるから、素直に聞ける。

「なんだか、私って、机並べてお茶出して、、、何にもしてないな、て思います」(笑)
と言うと、
「こういう場を開いてくれていることだけで感謝です」と言っていただき、
ずっと抱えていた胸のつかえや、自問自答が解けたようで、とてもうれしかったです。

その後、2つの会から10人の参加者があり、近くの居酒屋で新年会をしました。

分かち合いに続き、熱気のある会になり、2時間があっという間にすぎました。

「気候がよくなったら、景色のいいところに行って、きれいな空気の下で分かち合い、もいいですね」
という話も出ました。

「ただ、話し合いの場だけ、というのもどうかなぁ」という想いから
食事会や勉強会、音楽療法の会なども同時開催してきました。


時には、不要かな?と思ったりもしますが、

でも、時には参加した方から喜びの声ももらうので、
あたりはずれは覚悟の上で、これからもじばばたと、企画を投げ込もうと思います。

「自死遺族の希望の会」「うつ症状がある方と家族の会」に参加して下さった方々、
皆さんに支えてもらいました。
改めて御礼申し上げます。

これからも、
「異なるものを持ちながら共有できる思いを持ち寄り」
「共通するところもあるけど、それぞれに違う思いも受け止めあう」。
そんな会を続けていきたいと思います。

よろしくお願いします。

2014年01月20日 11:22

娘の友人から届いた1通の手紙

「はじめまして、私はしのちゃんの友人でNと申します。
こんなに時間が経ってからのお便りで驚かせたらごめんなさい。この度はどうしてもお伝えしたいことがあったのでお便りさせていただきました。


しのちゃんとは高校3年の時、サークルで一緒になってから仲良くなりました。当時彼とケンカして泣いているところを見られ、話を聞いてくれたのがきっかけでそれから恋愛の話もたくさんしました。
しのちゃんが言ってくれた言葉で救われたことがありました。
高校の卒業旅行にも一緒に行きました。夜、ホテルで2人で話していたら盛り上がってしまい、結局そのまま朝を迎えました。恋愛の話がかりで。。。


いつも自分のことよりもまず人のことを心配してくれる人でした。

高校を卒業して年に1,2回、サークルのメンバーで集まることがありました。しのちゃんに最後に会ったのは、彼女が就職が決まったときでした。
私はちょうどその時、彼と別れてしまっていたので、みんな一緒だったのに、しのちゃんにまた、たくさん話を聞いてもらったんです。
最後に話をしたのは電話で、、、2011年の4月でした。サークルで連絡をすることがあり、電話をしたときに彼とよりを戻したことを報告すると、とても喜んでくれました。
「やっぱりそうなると思っていたよ!よかったね!」と。。


私と彼のことは高校の友人のほとんどが知っていましたが、私が多く語らなかったこともあり、反対する子の方が多かったんです。復縁を喜んでくれたのは、しのちゃんともう1人だけでした。
だから、しのちゃんの一言がうれしくて、「やぱりしのちゃんは分かってくれる」と思いました。
実はこの時、彼から結婚したいと言われたことを報告したかったのですが、やっぱり直接会って話をしたいと思ったので「今度ご飯に行こう!また色々聞いてね!」と電話を切りました。


訃報を聞いたのはその2か月後のことでした。

あの時、早めに都合をつけてごはんに行っていたら、何か変わったかなって思うこともありました。
確かにあの時の電話の声はとても疲れた声でした。今でも耳に残っています。
大丈夫、と言っていたけど、あの時はすでに大丈夫じゃなかったんだろうと、、、
私と会ったところでどうにかなったなんてわかりませんが、それだけが今もずっとひっかかっています。


きっと喜んでくれただろうと思うと、報告できなかったことがとても残念でした。
最期のお別れのとき、棺に向かって、婚約したよ、て声をかけたかったのに、声が出ませんでした。
高校生の時からずっと応援してくれていたしのちゃんにはちゃんと報告したかったな、と後悔しています。


私と彼は2013年3月に無事に結婚式をあげました。
 
私が彼のことを思い続けられたのは、しのちゃんが応援してくれたからでした。
私が自分を好きになれたのもしのちゃんのおかげでした。
今、私たち2人が毎日仲良く幸せでいられるのも、しのちゃんがいてくれたからです。
私はこの先一生、彼女のことは絶対に忘れません。ずっと大好きな、大切な友達です。


結局、お墓詣りに行く勇気もないまま、時間が過ぎました。
お墓に行かなければ、現実味がなく、またいつかどこかで会えるんじゃないかって気もしていました。


小さな一歩の存在を知ったのは、今年の9月のことでした。かなりショックでした。自死だったなんて、、、

彼とケンカして、話を聞いてくれているとき、泣いている私に
「ねえ、今、ほんまに幸せ?ごめんけど、私にはそうは見えんのよ。自分のこと、もっと大事にしてあげて。
前向いて前向いて前向いて、自分が相手のことを想うのと同じくらい、想いを返してくれる人を探そう!
それでも、あの人がいいって言うなら、応援するけど、まず自分が自分を好きにならんと。
自分が自分を幸せにしてあげよう!がんばろうね!」
と言ってくれたしのちゃん。この言葉は当時の私の日記に書いてあって、
この言葉のおかげで私は自分のことが好きになれた。
彼との関係も変わっていったし、今も自分のことを好きでいられるように生きています。


そんな彼女が自ら死を選ぶほど辛い思いをしていた、、とてもショックでした。

 
色々書きましたが、どうしても、しのちゃんのお母さんに伝えたいことがあります。

 
ブログに「世の中の人の前にさらしてしまうこと、天国でどう思っているだろうか、母を許してくれるだろうか」
とあったのがとても気になったのです。


大学生の時のことで印象に残っていることがあります。

確か寒い時期でした。

しのちゃんが「私、うちのママに手紙をもらったんよ」と見せてくれたのです。
嬉しそうに話すしのちゃんの顔を今でも覚えています。


それは、20歳の記念に、しのちゃんあてに書かれたお手紙でした。
手紙には、20歳の誕生日まで大切に育ててきたこと、これからは大人として、どういう風に成長してほしいという願いが書いてあったとぼんやり記憶に残っています。


私が「感動した!」というと、
「でしょ~!私、ママのこと、大好きなんよ。私もいつか子どもができたら、ママみたいな子育てをしたいと思って。手紙も、絶対同じことをしてあげるんじゃ~」
と満面の笑みを返してくれました。
「めっちゃステキ!うちもいつか子どもができたらしのちゃんママみたいに手紙書いてあげたい~」と。。。もう8年前のことですがそのやりとりははっきり覚えています。


お別れの日、しのちゃんは「ママ、いつか子どもができたら面倒見てね」と言っていたと、ホールでのお話しで聞きました。
きっとその時も、「いつかママみたいな子育てがしたい」と思っていたはずです。


しのちゃんがお母さんのことが大好きだったこと、大好きなお母さんがしてくれたことをいつか自分の子供にもしてあげたいと思っていたこと
そして、それは、お母さんの子どもに生まれてきてよかった、育ててもらって幸せだったと思っていることを、おそらく天国から伝えたいんじゃないのかな、と思って。。。
私が代わりに伝えなければと思って、お便りしました。


しのちゃんが自分のことを世間に公にされてどう思っているかはわかりません。
私にも正解だったのか、わかりません。


だけど、小さな一歩の存在で、1人でも命が救われるのであれば、1人でも多くの人の心の支えになるのであれば、
しのちゃんなら、きっと、「お母さんのすることだから、まちがいないよ」って思ってくれてるんじゃないかと思います。
しのちゃんならきっと応援してくれているんじゃないかと思います。

でも、自分のことより、まず人のことを心配する彼女のことだから、
お母さんが忙しくても辛くてもがんばりすぎている時には、体調を崩したりしないかとハラハラしているんじゃないかと思いますので、、
どうか、お体は大切になさって下さいね。私も応援します。


1月中には、しのちゃんに会いに行こうと思います。
最後に、しのちゃんの安らかなお眠りをお祈り申し上げます。」


お手紙の最後に、娘と一緒によくカラオケで歌った
ダニエルパウターの
「Bad Song ~ ついていない日の応援歌」
の歌詞が添えられていました。

お手紙に書かれていた「ママからもらった手紙」は8年目の成人式に
私が娘にあてて「育児日記最終章:20歳の育児日記」として贈ったものです。
 

娘が生前、励まし続けた友人が幸せな結婚生活を送られることを心からお祈りします。
「歩美の分も合わせて2人分の幸せを持っているんだから、きっと大丈夫だよ!自信を持って!」

友人の言うとおり、自分のことより人のことばかり心配する子だった。
きっと私のことも、今、心配しながら見守ってくれていると信じている。


でも、でも、その何分の1でもいいから、自分自身を愛して、励まして、自信を持って
生き続けていってほしかった。

2014年01月13日 14:34

今日も明日も変わらぬ1日なれど

 「メリークリスマス!」「明けましておめでとう!」の言葉が飛び交う時期が自死遺族にとって辛いのは、世の中の「めでたいご唱和」と自分の悲嘆のギャップに苦しむからだけではありません。
 かつては、何度も自分自身がこの時節に、大切な人と、楽しいひとときを送っていた記憶が蘇るきっかけになってしまうから。

 「サンタさん」のプレゼントは何を贈ったら喜ぶだろう?と考えて枕元に置き、
 次の日の朝、「サンタさんからきたよ~」と喜んで起きてきた姿を思い出す。
 みんなで紅白歌合戦を見た後、神社に初詣に行き、近くのコンビニで買った暖かいドリンクをポケットに入れて、つまらない冗談でなぜか大笑いしながら並んだことを思い出す。

 年末年始に楽しい思い出がたくさんあればあるほど、大きな辛さで返ってくる。

 でも世の中で生きていくためには、「おめでとう」に合わせなくてはいけない年もある。
 
 だから「小さな一歩」は明けましておめでとう、とは言いません。
 年賀状も出しません。いただいた方には申し訳ないのですが。
 
 今日、事務局に2人の方からお手紙が届いていました。
 1人は自死遺族の方からの想いを綴ったお手紙。
 分かち合いにも参加されている方ですが、ふだんはあまりお話をされないので
 深くつらい思いを綴られた文章に接し、改めて「今まで十分お話を聞いてなかったのだ」と後悔しながら読みました。

 亡くなられた方も、我が娘と同じようにがんばってがんばって明るく生きていたこと、
 それだけに、心の中にある苦しさにもっと寄り添って「そんなにがんばらなくていいんだよ」って楽にしてあげたら救えたのでは、と悔いておられること。
 改めて知り、本当にその通りだったと胸が苦しくなりました。

 受験シーズンに向かうこれからの季節も「頑張っていた子どもの姿を思い出して辛くなる」、その通りですね。
 
 ご自分も自死防止に何か貢献したい、と結んでありました。
 Sさん、ありがとうございます。
 
 先日、教会で聞いた話。
 私たちの人生は生まれてから死ぬまで、長い旅路をたどる旅人なのです。
 旅の終わりである天国にたどり着くまで、人生という旅は続く。
 私たちの旅路はいま、「小さな一歩」という道の上にあって、とぼとぼと、それでも昨日よりは一つ、歩みを進めている。
 そして、最後にたどりついた門の前に、きっと、一番会いたいと願う人が迎えに来てくれる。

 私がこのことを思い浮かべるとき、なぜかいつも同じ娘の姿が目に浮かぶ。何年か前に街で買い物をするために待ち合わせた時に、駆け寄ってきた娘の顔、髪、服装、声。。。
きっとその姿で駆け寄ってきてくれるだろう。

 
 Sさん、そのようなものです。それぞれの旅路を歩きながら、時には寄り添える人でありたいと思っています。
 
 
 もう1通の手紙。娘の高校時代の友達からの長い手紙。
 読みながらたくさんの想いがこみあげて泣きました。
 長文になるので、次のブログにしたいと思います。
2014年01月02日 12:30